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川崎縦貫高速鉄道(かわさきじゅうかんこうそくてつどう)は、1960年代より、運輸省の審議会答申を受け、神奈川県川崎市が新百合ヶ丘駅 - 川崎駅間に建設を計画していた鉄道路線。川崎市交通局を事業主体とすることが考えられていることから川崎市営地下鉄とも呼ばれる。 2000年の運輸政策審議会答申第18号で、新百合ヶ丘 - 川崎間が2015年度までに開業すべき路線と位置づけられ、新百合ヶ丘駅から元住吉駅を経て将来的には川崎駅(その先、京急大師線との乗り入れ)を目指していた。環境アセスメント調査まで実施していたが、新百合ヶ丘駅 - 武蔵小杉駅間の計画に変更された後、2012年度をもって会計が廃止された。その後も整備計画は進まず、2015年度をもって計画が休止された。 == 経緯 == 川崎市内に地下鉄を整備する構想は1960年代に持ち上がり、運輸省の諮問機関である都市交通審議会は1966年7月、横浜周辺域における都市高速鉄道の整備に関する基本計画を策定した(9号答申)。この答申では川崎市を縦断する地下鉄として大師河原 - 末吉橋 - 元住吉 - 長沢 - 百合ヶ丘間の整備を盛り込んでおり、これが川崎縦貫高速鉄道の原型となっている。 しかし、都市交通審議会9号答申などの改定版として1985年7月に策定された運輸政策審議会答申第7号では、鉄道貨物輸送の衰退で貨物線の輸送力に余力が発生していた当時の状況を踏まえ、貨物線の旅客線化によって建設費の低減を図ることを主要な柱の一つとして位置づけた。これにより、川崎地区においても貨物線の武蔵野南線(鶴見 - 府中本町間)を活用して府中本町 - 新川崎 - 川崎間に旅客線を整備し、あわせて新百合ヶ丘駅から武蔵野南線への接続線を整備するものとした。このため都市交通審議会9号答申で盛り込まれていた大師河原 - 百合ヶ丘間の地下鉄は削除されている。 一方、1987年4月の国鉄分割民営化で発足した東日本旅客鉄道(JR東日本)は、山手貨物線の旅客線化に伴う受け皿として武蔵野南線を重要視していたこと、南武線のすぐ近くを通っていて新規需要の誘発が難しいことなどから武蔵野南線の旅客線化には消極的な態度を取った。このため1980年代末期には川崎縦貫高速鉄道として地下鉄建設構想が再び浮上することになるが、整備区間は新百合ヶ丘 - 川崎間に短縮され、川崎以東は連続立体交差事業により地下化される京急大師線に乗り入れることが考えられた。事業主体は当初第三セクターとされていたが、後に川崎市自身が建設、経営する市営地下鉄として整備する方針に変更し、1996年頃から、川崎市の交通政策計画として整備が研究され、新百合ヶ丘から宮前平、東急東横線に接続する路線として建設していくものとして計画はまとまっていった。 その後、川崎市議会で全会一致によって地下鉄整備方針を決議したことを受け、2000年1月に国土交通省により策定された運輸政策審議会7号答申の改定版となる18号答申で、新百合ヶ丘 - 宮前平 - 元住吉 - 川崎間が「目標年次(2015年度)までに開業することが適当である路線」(A1路線)に指定されると着工に向けての動きが本格化する。川崎市は元住吉を境に新百合ヶ丘側を初期整備区間、川崎側を2期整備区間として段階的に整備することとし、2001年5月に新百合ヶ丘 - 元住吉間の第1種鉄道事業許可を受け、事業が本格的に立ち上がり環境影響調査が実施された。 同年10月の川崎市長選挙で「地下鉄計画は原則推進」と表明して、建設見直しを主張する対立候補を破って当選した阿部孝夫は、学識者と市民で構成された「川崎縦貫高速鉄道線研究会」を設置して事業費の削減を検討させた。研究会は小田急多摩線との相互直通化や車両基地の建設中止などを提言した。当時は、川崎市の財政が一時的に黒字でなくなったこともあり、経済環境の厳しさを説明する前書きが設問の前に付されたアンケートを2003年5月に、沿線地域に限らず全市域の市民1万人を対象に実施した。そのようなアンケートにもかかわらず、沿線地域の結果を見ると長年の悲願だった鉄道開通を望む意見が多数であり、事業の推移が注目されたが、最終的に、同6月に川崎市長は計画を5年間凍結することを決定した。 その後、5年を待たずして川崎市の財政は黒字化したが、2005年に市長は、川崎縦貫高速鉄道の採算性を高めるとの理由でルート変更を指示。国の事業許可を受け補助採択がなされ環境アセスメント調査まで実施されていた新百合ヶ丘駅 - 元住吉駅の事業の廃止を国土交通省に伝える。同年3月に初期整備区間の終点を元住吉駅から武蔵小杉駅に変更、川崎フロンターレの本拠地である等々力陸上競技場をはじめ川崎市の大型公共施設が集中する等々力緑地を経由地に加える方針が決定され、新百合ヶ丘駅 - 武蔵小杉駅ルート(1期線)の新たな計画概要が発表された。この計画では、国の事業許可を得ていた計画よりもさらに短く、22年で利用料金により建設費用を完済でき黒字に転換するという試算が得られ、新百合ヶ丘、宮前平といった経由都市の整備や経済効果に対する期待から、事業の動向が注目された。 ところが、対立する候補に対して地下鉄計画推進を掲げて市長に再選された阿部市長は、2009年12月に有識者で構成される検討委員会を改めて設置。蓄電池や燃料電池を用いた新技術の導入検討も含め、交通システムの比較検討などを行い、2年程度かけてコストの削減策や事業方針をまとめることを指示した〔「早期事業化目指し検討加速 川崎市の縦貫高速鉄道 委員会設置、コスト削減策など」 『建設工業新聞』 2010年1月8日付、11面。〕。 2012年5月28日、川崎市の委託を受けた「新技術による川崎縦貫鉄道整備推進検討委員会」(委員長・大西隆東京大大学院教授)が、様々な条件を前提にした収支検討を含む検討結果の提言書を提出した。 しかし、2013年1月28日、川崎市の阿部孝夫市長は記者会見で、新百合ヶ丘駅から武蔵小杉駅間での計画に対して設けられていた高速鉄道事業会計を2012年度をもって廃止することを明らかにした〔川崎市、高速鉄道事業会計を閉鎖へ/神奈川 - 神奈川新聞、2013年1月28日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川崎縦貫高速鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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