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川手 良萬(かわて よしかず、1920年 - 1986年10月18日)は、日本の実業家、元山梨県建設業協会会長〔山梨県建設業協会沿革 〕。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するヴァンフォーレ甲府の前身である甲府サッカークラブの創始者でもある。 == 来歴 == 山梨県北巨摩郡若神子村(現在の北杜市須玉町)生まれ。旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校、以下「甲府一高」と記述)に進学しサッカー部に所属していた。卒業後間もなくして太平洋戦争に突入。川手自身も学徒出陣により満州へ送られ、終戦後はシベリア抑留で3年間強制労働を強いられていた。帰国後の1949年(昭和24年)に株式会社川手工業所を設立。実業家として歩み出した一方で、中学時代にプレーしていたサッカーの夢を捨てきれずにいた〔「VFK 40年の軌跡 栄光のピッチ (1)川手良萬が残したもの」(2006年1月30日、YBSニュース)〕。 そんな中、1965年(昭和40年)に開催されることになった第一回全国社会人サッカー選手権大会に出身中学のOBによって結成され、自分自身もかつてプレーしていた鶴城クラブ(かくじょう-)が出場することが決まり、上位カテゴリである日本サッカーリーグ(JSL)への参入を目指すべく他校のOBにも参加を呼びかけ、開催地までの旅費を捻出した。結果はベスト8となり、JSL参入とはならなかったが甲府クラブと名前を変え関東リーグに参入して3年目の1969年(昭和44年)には富士通サッカー部(現在の川崎フロンターレ)や日立茨城サッカー部など並居る実業団チームを抑え優勝、さらに全国社会人サッカー選手権大会でも強豪の浦和クラブとともに優勝した。1972年(昭和47年)にチームがJSL2部に参入し、運営経費が膨むことになったが私財を惜しみなく投入するなどして支え続けた〔。 しかし、かいじ国体で甲府クラブが山梨県代表チームとして出場することが決まり、本人も昭和天皇の案内役を任されていた1986年(昭和61年)に倒れ、意識不明となる。山梨県代表チームは川手のために優勝を誓うがプレッシャーからか思うようなプレーができず、準々決勝で京都紫光クラブ(現在の京都サンガF.C.)の選手を中心に結成されていた京都代表に敗れてしまう。そしてかいじ国体が閉会した翌日の10月18日に死去。享年66であった〔。 川手の死後、出資者がいなくなった甲府クラブは運営の危機に陥ったがOBらの支えによりチームの存続が決まり、1995年(平成7年)にはヴァンフォーレ甲府と名前を変え、1999年(平成11年)からJリーグに参入している。 なお、株式会社川手工業所は2010年12月に甲府地方裁判所より破産手続開始決定を受けている〔帝国データバンク2010年12月15日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川手良萬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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