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川村禎三 : ウィキペディア日本語版
川村禎三[かわむら ていぞう]

川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年 - 2003年1月16日)は、岩手県矢巾町生まれの柔道家(9段)。
==略歴==
旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高校)出身。中学時代には、旧制仙台二高が開催していた近県の柔道大会(団体戦)で圧倒的な体格と強さを発揮し、盛岡中学を優勝に導いた。また中学5年次には、岩手県予選を勝ち抜いて昭和天覧試合にも出場している〔。
1941年(昭和16年)に東京高等師範学校体育科二部(柔道専攻)に入学し、同期の安部一郎(のち10段)らと共に厳しい稽古に明け暮れた〔安部は当時の高等師範学校での稽古を「相手は必ず上級生で、歩合稽古をやっていたら大変な叱りを受けた」「捨て稽古で攻めるのみの稽古を強いられ、大変な厳しさがあった」と述べ、「川村と雖も稽古の厳しさには参っていた」と述懐している。〕。1944年(昭和19年)同校を卒業
東京第二師範学校(のち東京学芸大学)に着任し、講師助教授教授を務める。この間、1953年(昭和28年)から55年(昭和30年)に英国に留学しており、1953年にベルギーブリュッセルで開催された第4回ヨーロッパ選手権では、フランス粟津正蔵オランダ道上伯らと共に審判員を務めた。この大会の4段の部の決勝戦、アンリ・クルティーヌ(フランス)とアントン・ヘーシンク(オランダ)との試合では、クルティーヌの小内刈技あり判定に対しフランス側から抗議が出て試合が一時中断するなどしたが、川村の筋の通った説明で事態を収拾している〔試合は結局、ヘーシンクが内股で逆転勝ちを収め、金メダルを獲得した。〕〔。
1975年(昭和50年)からは筑波大学教授となり、1978年(昭和53年)から1982年(昭和57年)には大学院修士課程長をつとめる。1986年(昭和61年)に定年退職となる。筑波大学名誉教授。同年4月から(財)講道館審議部調査部長として段位認定に関する業務に携わる。講道館評議員・審議部長・参与、全柔連理事・評議員、日本武道学会会員・常任理事、武道評議会委員、などを歴任する。
文部省(のち文部科学省)主催の学校体育指導者実技講習会の講師として、1963年(昭和38年)から1984年(昭和59年)にわたり、実技指導を通じて学校体育の正しい指導法の普及に尽力した。
柔道の国際普及に関する貢献が顕著で、技術指導の他、1961年(昭和36年)には国際柔道連盟初代スポーツ理事に就任し、国際ルール〔国際柔道連盟独自の審判規定の制定に携わり、川村の作った原案が1967年の第4回世界選手権の総会で承認され、その後の国際ルールの礎となった。〕、スポーツコードの作成、世界選手権大会オリンピックの運営などの業務を担当し〔体重別階級制の導入については、IJF加盟国からの強い要望もあり1969年の総会で5階級の導入が決定されたが、レスリングと同様に10階級の採用を主張する東欧諸国に対し、“過度の細分化は柔道の特徴を失う”と川村が反論し、1978年の総会で7階級の導入が決定された経緯がある。〕、1979年(昭和54年)に辞任するまで国際柔道の整備に尽くした。国際柔道連盟名誉会員(永久)。
1998年勲三等瑞宝章2003年従四位。2002年11月より急性肺炎のため入院していたが、翌年1月16日に死去した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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