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川村 花菱(かわむら かりょう、1884年2月21日 - 1954年9月1日〔川村花菱 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年1月4日閲覧。〕)は、日本の劇作家、演出家、脚本家である。本名は川村 久輔(かわむら きゅうすけ)〔。 == 人物・来歴 == 1884年(明治17年)2月21日、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込)に「川村久輔」としてうまれる〔。 旧制・早稲田大学英文科を卒業する〔。満24歳となった1908年(明治41年)11月11日、東京・牛込に藤沢浅二郎が自費で開校した東京俳優養成所〔藤沢浅二郎 、『朝日日本歴史人物事典』、執筆藤木宏幸、朝日新聞出版、コトバンク、2010年1月4日閲覧。〕の教師となる〔。 1912年(明治45年)、有楽座で土曜劇場を設立する〔。続いて新日本劇を設立する〔。1923年(大正12年)、日活向島撮影所の脚本部に入社している〔『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎、中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.370.〕。同年9月の関東大震災以降、向島撮影所の京都移転に伴い、京都撮影所の第二部(現代劇部)に異動している〔 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.374.〕。 1932年(昭和7年)からは松竹蒲田撮影所で、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『乳姉妹』といった通俗小説の脚本化に携わった。 その後は、芸術座の脚本部員・興行主事として活動した〔。代表作とされる戯曲『母三人』〔は、1930年(昭和5年)以来、4度映画化された。 1954年(昭和29年)9月1日、死去した〔。満70歳没。没後の1967年(昭和42年)、駅前シリーズの佐伯幸三監督作『喜劇 駅前満貫』に原案が起用されている。現在著作権の保護期間は満了し、作品のすべてがパブリックドメインである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川村花菱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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