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川柳 川柳(かわやなぎ せんりゅう、1931年3月23日 - )は 埼玉県秩父郡横瀬町生まれの落語協会所属の落語家。本名加藤 利男(かとう としを)。出囃子は『三味線ブギ』(※定期的に変わっている)。主に新作落語や漫談を得意とする。酒癖が悪いことで知られる。 == 経歴 == * 1946年 - 高等小学校卒業後父の勧めで東京に出て、さまざまな職業につく。 * 1951年 - この頃酒販店にて住み込みで働く。これにより酒の味を覚え入門後泥酔騒動をおこす原因となる。 * 1955年8月 - 6代目三遊亭圓生に入門。前座名はさん生。 * 1957年 - この頃泥酔し圓生の自宅玄関で脱糞する事件を起こす。脱糞の件は後に小川宏ショーで白状するまで圓生にばれずに済んだが、身に付けていた褌が圓生の机においてあったためその件で咎められたという。 * 1958年9月 - 二つ目昇進。 * 1959年 - 東宝「落語勉強会」メンバーに選ばれるが騒動が起き、巻き込まれる形で除名。新作落語へ転向するきっかけとなった。 * 1960年代 - 『ラ・マラゲーニャ』を高座で披露したのをきっかけにテレビの仕事が増えるが、古典落語至上主義の圓生と溝ができ始める。 * 1965年 - 『笑点』の前身番組『金曜夜席』の大喜利メンバーとして出演することが決まっていたが、1回目の収録をすっぽかしたことが司会の立川談志の怒りを買い、出演する間もなく、降板させられた。 * 1972年 - 圓生が落語協会会長を退き、5代目柳家小さんが引き継ぐ。 * 1974年9月 - 兄弟子5代目三遊亭圓楽のとりなしもあり、集団真打昇進(第二弾)の一人として真打昇進を果たす。しかし、新作やラテン音楽で売れたさん生に対し、古典を旨とする圓生は最後まで抵抗の意思を捨て切れず、かつ協会による集団真打昇進への抗議のために真打昇進披露などの公式行事に一切参加をしなかった。 * 1978年5月12日 - 圓生が5代目圓楽を除く弟子一同を集め、落語協会を退会する考えを伝える。この時点では弟子達は同行(退会)せず、5代目圓楽一門に入り落語協会に残るように言われ、協会残留に除名・破門は関係していない。 : 同年5月14日、圓生が新しい協会の設立を計画していることを弟子全員が知る〔事前に知っていた一門の真打は、5代目圓楽、圓窓、圓彌、生之助で、さん生や好生、3月に真打に昇進したばかりの圓丈には知らされていなかった。〕。 : 同年5月16日、圓生から新しい協会、「落語三遊協会」の説明などを受け、ついてゆくことにするが、帰宅後の飲酒の上での失敗(後述)から落語協会残留へと転変する。 : 同年5月17日、好生が落語協会残留の意志を圓生に伝える。数時間後、好生とは別にさん生が残留の意志を圓生に伝える。両名とも圓生より破門を宣告されるが、高座名はそのまま。 : 同年5月24日、「落語三遊協会」設立記者会見を赤坂プリンスホテルで行う。 : 同年5月25日、都内4つの寄席の席亭による会議が開かれ、新設立の三遊協会を締め出すことを決定する。 : 同年5月25日 - 27日、三遊協会の圓生一門以外が落語協会に戻る意志を小さんに伝える。 : 同年5月28日、さん生宅に圓生から「芸名を返せ」との電話。その日の内に楽屋で8代目林家正蔵(後の彦六)・小さんと相談し、「川柳川柳」と改名。 * 1979年9月3日 - 圓生死去。葬儀に春風亭一柳(元・好生)と参列。 * 1980年2月1日 - 5代目圓楽一門以外が落語協会に復帰。 * 1997年3月 - 弟子のつくしが入門。5月に楽屋入り。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川柳川柳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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