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川満 寛弥(かわみつ ひろや、1991年3月4日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手(投手)。 == 経歴 == ===プロ入り前=== 沖縄県宮古島市出身。野球を始めたのは下地小学校3年生から。仲の良い幼馴染みたちが少年野球チームに入ったのをきっかけにして始めたが、最初は軽い気持ちだったという〔。下地中学校時代は軟式野球部に所属し、ポジションは主に一塁手と外野手だったが、ベンチでスコアブックをつけていることが多かった。 沖縄県立宮古総合実業高等学校に進学。宮古にある4つの高校のうち、甲子園を目指すなら当時は宮古高等学校に入るところ、「楽しく野球が出来れば良い」という理由で沖縄県立宮古総合実業高等学校を選んだ。 しかし、中高校ともに、野球部に専門的な指導が出来るコーチがおらず、宮古総合実業野球部に入部後、投手が足りないという理由で、本人いわく「行きかがり」でピッチャーに転向〔。 1年夏からベンチ入り。 高校時代はまったくの無名で、3年夏の全国高等学校野球選手権沖縄大会では、初戦で興南高等学校と対戦し、0-11で5回コールド負け。 その後、沖縄県内の大学からも声が掛けられていたが、福岡の九州共立大学経済学部に進学。九共大硬式野球部監督の仲里清からは、投げる時の身体の使い方や連動が素晴らしく、日本を代表する投手になれる素質と見いだされた〔。 入学時は体重65キロと細身だったため、入学後は1日4食に夜食を詰め込む努力で15キロの増量にも成功した。 1年秋に初登板を果たす。 2年春には、5勝0敗〔という成績を挙げ、福岡6大学野球リーグで最優秀選手賞を獲得。3年春季リーグでベストナイン選出、防御率1位。〔『週刊ベースボール』2012年1月30日号、ベースボールマガジン社、2012年、雑誌20445-1/30、28頁。〕 3年時には、第38回日米大学野球選手権大会の大学日本代表選手選考合宿(6月17-19日)へのメンバーに選出。最終代表からは漏れたものの、この時の合宿で当時東洋大学のエースだった藤岡貴裕からスライダーの投げ方を教わるなど目標とする選手への「弟子入り」も経験。 2011年10月にパナマで開催された第39回IBAFワールドカップに大学生として唯一選出され、米国戦とプエルトリコ戦の2試合で先発〔、2試合計投球回数7回で8失点という結果だったが、社会人野球の選手たちとの差など実感することも多く国際舞台での貴重な経験となった。11月には翌年の世界大学野球選手権大会に出場する大学日本代表選手の選考強化合宿(愛媛県松山市/12月)に参加する40人の中に選出。 2012年、4年では春季・秋季リーグで防御率1位。 2012年10月25日、ドラフトで、千葉ロッテマリーンズから2位で指名され、「いずれ沢村賞を取れるような投手になりたい」と意気込みを語った。 11月21日福岡県北九州市内の九州共立大学キャンパスにおいて、契約金8000万円、年俸1300万円(推定)でロッテと仮契約を結び「やっとロッテの一員になったという実感が湧いた」と笑った。背番号は「36」。 大学で同期の竹下真吾・福地元春が2014年のドラフトで指名を受け、川満と合わせ大学同期の左投手3人がプロ入りすることとなったが、これは吉見祐治・洗平竜也・歌藤達夫以来のことである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川満寛弥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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