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川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。 大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った〔原善「川端康成」()〕。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ〔、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた〔羽鳥徹哉「作家が愛した美、作家に愛された美―絶望を希望に転じ、生命の輝きを見出す」()〕〔羽鳥徹哉「川端文学の世界――美についての十章」()〕。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。 代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明され、研究・追跡調査されている。 川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢恒夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる〔「新感覚――『文芸時代』の出発」()〕〔「第二部第五章 新人才華」()〕。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。 多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した(なお、遺書はなかった)〔「『美しい日本の私』――ノーベル賞受賞」()〕〔「第三部第八章 末期」()〕。 == 生涯 == === 生い立ち――両親との死別 === 1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生〔笹川隆平『茨木の名誉市民 川端康成氏と豊川―その幼少期と手紙―』(私家版、1970年4月)。「川端康成氏の生誕地について」(国文学 1971年7月号)。『川端康成〈その人・その故郷〉』(婦人と暮しの会出版局編、1974年4月)。、。笹川隆平『川端康成――大阪茨木時代と青春書簡集』(和泉書院、1991年9月)〕〔「孤児根性について」(愛知教育大学研究報告1969年2月号)。に所収〕〔川西政明「解説」()〕(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた〔「川端康成集注釈」「川端康成年譜」「注釈者あとがき」()〕〔森晴雄「川端康成 略年譜」()〕)。7か月の早産だった〔「祖母」(若草 1925年9月号)。、に所収〕〔「思ひ出すともなく」(毎日新聞 1969年4月23日号)、『写真集 川端康成〈その人と芸術〉』(毎日新聞社、1969年8月)。『川端康成全集第28巻 随筆3』(新潮社、1982年2月)、に所収〕。4歳上には姉・芳子がいた〔「父母への手紙(続)」(「父母への手紙」第三信)(若草 1932年9月号)。、に所収〕。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった〔「あるかなきかに」(「父母への手紙」第五信)(文藝 1934年1月号)。、に所収〕〔。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった〔「少年」(人間 1948年5月号-1949年3月号)。『川端康成全集第10巻 小説10』(新潮社、1980年4月)に所収。に第5、6、7、9回分掲載。に抜粋掲載〕。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった〔「私のふるさと」(週刊サンケイ 1963年7月15日号)。、に所収〕〔中野好夫「作家に聞く――川端康成」(文學 1953年3月号)。中野好夫「川端康成」(『現代の作家』岩波新書、1955年9月)。に所収〕〔。 しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)〔〔川端富枝『若き日の川端康成氏と川端家』(私家版、1972年8月)。『ノーベル賞受賞の川端康成氏と川端家』(私家版、1971年4月)。、。川端富枝『川端康成とふるさと 宿久庄』(私家版、1990年4月)〕〔。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した〔。 2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった〔〔「川端家の親戚たち―康成の階層的基盤―」(文學1976年3月号)。に所収〕〔「年譜」()〕。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った〔「故園」(文藝 1943年5月号-1945年1月号)。『川端康成全集第23巻 小説23』(新潮社、1981年2月)所収。に「一」から「五」まで掲載。、田中保隆「故園」()に抜粋掲載〕〔〔川端香男里「年譜」()〕〔「川端康成、その故郷」(新潟大学 新大国語1975年3月号)。に所収〕。 宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた〔〔「十六歳の日記」(文藝春秋 1925年8月-9月号)。、、に所収〕。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った〔〔「川端康成と祖父三八郎」(国語と国文学 1975年11月号)。に所収〕。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった〔。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした〔〔。 川端の家系は北条泰時から700年続き〔、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)〔〔川嶋至「資料断片・川端康成の系図」(位置 1963年10月号)。〕〔「川端康成、家柄と家系意識」(愛知教育大学 国語国文学報1974年12月号)。に所収〕。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった〔〔。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる〔〔「文学的自叙伝」(新潮 1934年5月号)。、、に所収〕。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった〔。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に〔「父母への手紙」(第一信)(若草 1932年1月号)。、、に所収〕〔、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川端康成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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