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川端玉章[かわばた ぎょくしょう]
川端 玉章(かわばた ぎょくしょう、天保13年3月8日(1842年4月18日) - 大正2年(1913年)2月14日)は、日本画家。京都・高倉二条瓦町の生まれ。蒔絵師左兵衛の子。本名・滝之助。 ==経歴== 中島来章に学び、画論を小田海僊に学ぶ。1866年江戸に移り高橋由一に油絵を学ぶ。1882年第一回内国絵画共進会、1884年第二回で銅賞。1889年岡倉覚三(天心)によって東京美術学校に円山派の教師として迎えられる。 1890年東京美術学校教授に就任、主に写生を受け持った。逸話として学校に出勤する前に、10枚、15枚と絵を描いてくることを自慢の種にしており、手は馬鈴薯のように丸々と太り、顔にはあばたや大きな斑点があったから「がんもどき」などと学生に渾名つけられていた。円山派において巧みな筆技をもっていた玉章は「腕の画家」であり、絵画を一種の技術と考えていた。この点、同時期に日本画の指導をしていた橋本雅邦とは全く逆の立場にいたと言える。これを証明する事実として、玉章はある展覧会に出品する壁画の柳を学生達の前で描いた。その時筆に墨をつけ一間ばかり飛びながら線を引き、何かぽんぽん付け加えると青柳がすぐでき上がってしまい、まるで「曲芸」を見ているようだと学生達は述べている。 1896年6月30日帝室技芸員〔『官報』第3901号、明治29年7月1日。〕、1897年古社寺保存会委員、1898年日本美術院会員、文展開設以来審査員を務める。1910年川端画学校を開設。1913年、中風のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁〕。 孫の川端実は洋画家。
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