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川端 順(かわばた じゅん、1960年3月19日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(投手)。野球指導者。 == 来歴・人物 == 鳴門高校時代には、徳島県で屈指の本格派投手と言われていた。1977年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、南四国大会準決勝に進むが高知高に惜敗、甲子園の土を踏むことはできなかった。 高校卒業後は法政大に進学、しかし当時の法大は2年上の住友一哉、2年下の和田護(日産自動車)ら投手陣の層が厚く、最初は野手として出場したこともあったが、目立つ成績はあげていない。大学同期には池田親興がいた。 1982年に東芝に入社し、黒紙義弘、青木秀夫らと強力投手陣を形成。1983年の都市対抗では、日産自動車から補強された大学同期の池田も加わり、順調に勝ち進む。決勝では先発し、新日鐵名古屋を降し優勝〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。同年の社会人野球日本選手権でも2勝をあげ決勝に進出するが、先発の青木が住友金属に攻略され惜敗、準優勝にとどまる。 同年ドラフト1位で広島に入団。2年目の1985年には先発、抑えに起用され11勝7敗7セーブを記録、新人王を獲得した。翌1986年からは抑えの津田恒実につなぐ、いわゆるセットアッパーに転じ、同年の西武との日本シリーズでも4試合に登板。1987年には最高勝率を記録、その後も中継ぎの柱として赤ヘル投手陣を支えた。 1992年限りで引退。2005年まで広島の投手コーチを務めた。現在は球団フロント入りし編成グループ長〔週刊ベースボール2014年3月24日号 P20〕として働く一方、二軍の臨時コーチとして若手投手に指導している。バタボールと呼ばれる変化球(パームボール)を持っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川端順」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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