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本項川越市の町名(かわごえしのちょうめい)では、埼玉県川越市における現在の町名や地名を中心に、明治時代初期以来の町名の変遷について記述する。 == 概要 == 近世以前の川越の歴史について略説する。歴史の詳細は別項「川越市」「河越氏」「河越館」「川越城」を参照。 川越は、古くは「河越」または「河肥」と書いた。川越と表記されるのは近世以降である。平安時代末期から南北朝時代にかけて、桓武平氏の秩父氏の流れを汲む河越氏がこの地を本拠地とし、荘園を開発した。河越氏の居館跡は川越市街地の北西、入間川西岸の同市上戸(うわど)に残り、「河越館跡」として国の史跡に指定されている。 現在の川越市の中心市街地は、かつての河越城の城下町であった(城名は、近世以降は「川越城」と書くのが通例)。城は、1457年(長禄元年)、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝が、古河公方足利氏への備えのため、家臣太田道真に命じて築いたものである。1537年(天文6年)、河越城は後北条氏の北条氏綱の攻撃を受ける。若年の城主上杉朝定は敗走し、その後は後北条氏の時代が半世紀ほど続いた。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉は小田原征伐に乗り出し、河越城は前田利家の軍勢に襲われて落城。同年、徳川家康の江戸移封にともない、家康の重臣の酒井重忠が1万石で入城した。以後、近世を通じ、川越城は川越藩主の居城となった。酒井忠利、酒井忠勝の後、1635年(寛永12年)、老中堀田正盛が入城した。 1638年(寛永15年)の大火で城下の大半が焼亡。翌1639年(寛永16年)、武蔵国忍藩から移ってきた老中松平信綱により城の拡張改築と、城下町の整備が行われた。以後、城主は柳沢氏、秋元氏、越前松平家、松井松平家と変遷し、幕末に至る。川越は江戸に最も近い城下町で、江戸の北方の守りとして軍事上の要衝であるとともに、江戸へ通じる川越街道と新河岸川の水運により、経済的にも繁栄した。 1893年(明治26年)の川越大火で多くの古い建物が失われたが、旧城下町には今も蔵造りの建物が数多く残って歴史的街並みを形成しており、「蔵の町」「小江戸」と呼ばれて親しまれている〔本節の記述はおもに『日本歴史地名大系 埼玉県の地名』によった〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川越市の町名」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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