翻訳と辞書
Words near each other
・ 川邉加奈子
・ 川邉忠義
・ 川邊
・ 川邊サチコ
・ 川邊健太郎
・ 川邊優子
・ 川邊昭宏
・ 川邊裕紀
・ 川邊賢一郎
・ 川那子祐輔
川那部だし
・ 川那部浩哉
・ 川邨麟也
・ 川部
・ 川部・高森古墳群
・ 川部修詩
・ 川部守一
・ 川部村
・ 川部村 (福島県)
・ 川部橋駅


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

川那部だし : ウィキペディア日本語版
だし (戦国時代)
だしまたは荒木 だし(あらき だし、永禄元年(1558年)? - 天正7年12月16日1580年1月2日))は、戦国時代女性摂津有岡城主・荒木村重の妻。正室側室かは不明だが、その最期を伝える資料によると当時は村重の第一の妻であったように記されている。
== 出自・名称 ==
出自に関しては『左京亮宗継入道隆佐記』には「大坂にて川なう左衛門尉と申者むすめ」とあり、石山本願寺に仕えた川那部氏の娘と考えられる〔落ち延びたとされる村重の遺児・岩佐又兵衛は本願寺に保護されたといわれている。〕。荒木村重は当初、摂津池田城主・池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となっていたため、村重の正室は池田長正の娘となるが、だしは天正7年(1579年)の時点で21歳または24歳とされており、年齢的に村重と20歳以上離れており、継室または側室であった可能性が高い。村重の嫡子・村次は正室に明智光秀の娘を迎えているため、年齢的にだしの子では無い事は明らかである。有岡城落城時に2歳であったという岩佐又兵衛は、年齢的にはだしの子である可能性があるが、不明である。
また呼称のだしの由来については『左京亮宗継入道隆佐記』によると、「城の大手の出しに置き申女房にて候故」そう称したとある。
一方でダシというキリスト教の受洗名(Daxi)であり、この女性はキリシタンであったという説もある〔阿部猛『戦国人名事典』P59〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「だし (戦国時代)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.