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川面凡児 : ウィキペディア日本語版
川面凡児[かわつら ぼんじ]
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日文久2年4月1日) - 1929年昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。の行法を体系化し、組織的に行なった〔: 川面凡兒の「禊」と高木兼寛の「国民運動」を中心に」 佐々木浩雄、日本体育学会大会予稿集 (60), 79, 2009-08-26〕。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)〔〕。
== 略歴 ==
豊前国(現・大分県宇佐郡両川村小坂)に、酒造業を営む家の次男として生まれる〔。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。15歳のとき、入津(豊後高田市)にある 鴛海米岳(おしうみべいがく)の私塾「涵養(かんよう)舎」〔大分歴史辞典〕〔『川面凡児先生伝』金谷真著、みそぎ会星座連盟、昭和16〕で皇漢、仏教、法律、経済などを学ぶ。自由民権運動に傾斜し、板垣退助を尊敬していた〔。
1882年(明治15年)、21歳で熊本県隈庄町に私塾「稚竜同盟谷」を開き、子供たちの教育に携わる。1885年(明治18年)には長崎市銀屋町の「行余学舎」に学び、また塾生に修身や歴史を教えもした。同年上京し、雑誌『日本政党』を創刊。政治家を目指したが、宗教家に転じ、新聞雑誌への投稿で糊口を凌ぎながら、井上哲次郎杉浦重剛などの宗教家や思想家などと交流し、宗教学を学んだ。生活の困窮を見かねた増上寺の計らいで、雑読『仏教』の主筆となり、「蓮華宝印」のペンネームで雑誌『禅宗』などにも寄稿した。淑徳女学校で教師もした。明治29年からは「鬼芙蓉」の名で『自由党報』にも寄稿し、これが縁で明治32年から33年まで「長野新聞」の主筆に、またそののちには和歌山県自由党機関誌「熊野実業新聞」の主筆となる〔。
1906年(明治39年)に下谷区三崎町に「全神教趣大日本世界教」を旗揚げし、稜威(みいつ)会を創立、神道宣布に専念。1908年(明治41年)には機関誌『大日本世界教みいづ』を創刊、1908年(明治42年)から片瀬などで修禊を開始。1914年(大正3年)、男爵高木兼寛を会長に、古典を通じて日本の神々を学ぶ古典考究会を設立、『古典講義録』を刊行。同会には秋山真之八代六郎平沼騏一郎、杉浦重剛、頭山満筧克彦らが関わった〔 松岡正剛の千夜千冊〕。
1917年(大正6年)から滝行など禊の行を会員とともに各地で始める。神宮奉斎会の会長で、大正期神道界の最高長老と言われた今泉定助が支持したことで〔、各地の有力な神職の賛同を得て、海浜や滝水での禊行事が全国的に流行した〔日本大百科全書(小学館)〕。1921年(大正10年)には団体が社団法人として認可され、1926年(大正15年)には代表作『天照太神宮』を出版。1929年(昭和4年)正月に、片瀬で大寒禊の指導を行なったあと体調を崩し、2月末に肺炎により68歳で死去〔〔稜威会HP〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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