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工部大学校(こうぶだいがっこう)は、明治時代初期に工部省が管轄した教育機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つである。 == 概要 == 予科、専門科、実地科(いずれも2年)の3期6年制を採用し、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の各科を持つ。最初の二年を普通学期、次の二年を専門学期、最後の二年を専門実習学期とする。同時代の理工系高等教育機関には、東京大学工芸学部があり、こちらは学術理論に重きを置く一方、工部大学校には実地教育が重点視され、そのため工部大は実務応用に秀で、東大と争うように各分野や業界の先覚者を輩出した。 工部大には工部省から在学中の経費を支給される官費生と学資を納める必要のある私費生の別があった。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働くことになっていた(工部大学校学課並諸規則)。 工作局長の大鳥圭介が初代校長を兼任し、初代都検(教頭。実質的な校長)はイギリス人ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)が務めた。他にも外国人教師が招かれ、多くの授業は英語で行われた。学生のノートや卒業論文も、英語で書かれたものが現存している(国立科学博物館新館2階などで見ることができる)。 キャンパスは、現在の千代田区霞が関三丁目、文部科学省および金融庁のある一帯(霞が関コモンゲート、江戸時代の日向内藤家上屋敷跡地)にあった。 なお、東京大学と合併(下記)し移転した後も校舎は残され、関東大震災によって焼失するまで東京女学館校舎として利用されている。文部省が同地に置かれるのはそれ以降のことである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「工部大学校」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Imperial College of Engineering 」があります。 スポンサード リンク
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