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工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県豊明市出身の元プロ野球選手(投手)。福岡ソフトバンクホークス第20代監督(現職)。 プロ野球選手時代は14度の優勝、11度の日本一を経験〔【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (1/2ページ) デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2015年10月26日閲覧。〕。西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた〔【5月23日】2007年(平19) 工藤公康、セ最年長記録「一番長くて忘れられない1勝」 〕。日本シリーズ通算最多奪三振記録を保持する〔【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (2/2ページ) デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2015年10月26日閲覧。〕。 2012年 - 2014年の3年間、野球解説者・野球評論家として活動し、2015年からは福岡ソフトバンクホークスの監督(第20代)として指揮を執っている〔工藤新監督「恩返ししたい」 背番は81 日刊スポーツ 2014年11月1日閲覧〕〔工藤公康氏の福岡ソフトバンクホークス監督就任について 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト 2014年11月1日付〕。 長男に俳優の工藤阿須加、長女にプロゴルファーの工藤遥加がいる〔”5人きょうだい”工藤阿須加、ドラマでも大家族に意欲 ORICON STYLE 2015年5月22日配信、2015年10月26日閲覧。〕〔長女・遥加、父の鷹・工藤監督は「理想のアスリート」 SANSPO.COM(サンスポ) 2015年9月18日配信、2015年10月26日閲覧。〕。 == 経歴 == === プロ入り前 === 名古屋電気高等学校時代は山本幸二とバッテリーを組み、の第63回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4-0)。チームをベスト4に導いた。 同年のドラフト会議では、熊谷組への就職を発表しプロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武ライオンズが6位で強行指名した。その後、説得に応じ入団となった(当時のマスコミには、「6位指名ながら、1歳上で1位指名の伊東勤より高額の契約金・年俸」と推定されていた)。 入団時の経緯については、管理部長の根本陸夫が主導してドラフト指名し、入団にこぎつけたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつであると長年伝えられていたが、ドラフト会議時の根本は工藤の指名について反対の立場で、指名を強く進言したのは当時西武監督に就任したばかりの広岡達朗だった〔広岡達朗『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』(幻冬舎 2016年3月) P33 - 34。ISBN 978-4344029163〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「工藤公康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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