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工藤孝一 : ウィキペディア日本語版
工藤孝一[くどう こういち]

工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 1971年9月21日)は、岩手県岩手郡川口村(現:岩手町)出身〔のサッカー選手、サッカー指導者。ベルリンオリンピックサッカー日本代表コーチを務めた。
== 略歴 ==
旧制・岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)から1927年に第一早稲田高等学院へ進学。ゴールキーパーとして全国高等学校ア式蹴球大会に出場、1929年の第6回大会の優勝に貢献した。1930年に早稲田大学商学部に入学〔し、ア式蹴球部に入部。一時はフォワードに転向して競技を続けたが、体格に劣ることから選手生活に見切りを付け、マネージャーとして活動するようになった。
1933年に大学を卒業後、一時大同生命保険に就職したが、後に同盟通信社に転職。これと並行して早稲田大学の監督に就任した。
1936年ベルリンオリンピックでは堀江忠男川本泰三など早稲田大学出身者がサッカー日本代表に多く選出され、工藤もヘッドコーチに就任した〔「日曜スコープ」 朝日新聞、1967年11月19日、2014年9月21日閲覧〕。監督の鈴木重義、選手兼任コーチの竹腰重丸とともに、当時ヨーロッパの先端であった3バック+システムを急遽導入するなど苦心の末、ベルリンの奇跡を成し遂げた。1942年には日本代表監督に就き、「満州国」建国十周年慶祝東亜競技大会など4試合を指揮した〔『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、14頁。〕。
1943年に同盟通信社を退職して岩手県へ帰郷。酪農業を営み、農協の専務も務めた〔。1944年に太平洋戦争により召集され、1945年に復員した。岩手在住中は盛岡中学のコーチに就任し、八重樫茂生などを指導した〔。岩手県サッカー協会の設立に関与し、1950年には初代会長に就任した。
1952年に再び上京して早稲田大学の指導を行い、1957年より早稲田大学の監督に就任。早稲田大学で工藤の指導を受けた選手は八重樫、川淵三郎釜本邦茂松本育夫宮本征勝森孝慈などである。
1959年には早稲田大学で教職(講師)に就いた〔早稲田の“主” 工藤孝一(上) 賀川浩サッカーライブラリー〕。
1966年に監督職を引退。1971年9月21日、東京都杉並区荻窪病院心不全により死去した〔「工藤孝一氏訃報」 朝日新聞、1971年9月22日、2014年9月21日閲覧〕。葬儀は東伏見の早稲田大学グラウンドで、ア式蹴球部葬として行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「工藤孝一」の詳細全文を読む



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