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工藤 幹夫(くどう みきお、1960年9月30日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手(投手、内野手)。 == 経歴 == 本荘南中学校時代には軟式野球で東北大会で優勝。当時のチームメイトには村岡敏英がいる。本荘高校時代には甲子園出場経験はなかったものの巨人も獲得意欲を示していた程の逸材であった〔週刊ベースボール2014年2月3日号 P88〕。1978年にドラフト2位で日本ハムへ入団。入団当初はアンダースローだったが、サイドスローへとフォームを改造して頭角を現し、1981年の日本シリーズで2勝を挙げる。 1982年は先発として20勝4敗・防御率2.10の成績を収め、最多勝・最高勝率・ベストナインに輝く。この年の9月に右手小指を骨折し、前期優勝の西武と対戦するプレーオフは絶望と見られていたが、驚異の回復を見せて10月9日の第1戦に先発。この時は6回0/3を投げて無失点だったものの、打線の援護が無く勝ちはつかなかった。しかし、第1戦から中2日の第3戦に再び先発すると1失点完投勝利、このプレーオフ日本ハム唯一の勝利をもたらした。監督だった大沢啓二によると、医師から「プレーオフには間に合う」と聞き、世間を驚かせようと考えて、ケガの具合は伏せたままひそかに練習をさせたという〔大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)P183 - 184。〕〔味方を欺くこと1カ月 - スポニチ〕。なおこの年、レギュラーシーズンでは西武相手に6勝1敗と抜群の相性を見せていた。 1983年は、前年プレーオフでの大沢監督の無理な起用が祟り、8月まで8勝8敗も9月4日に右肩を痛め〔週刊ベースボール2014年2月3日号 P89〕、1984年を最後に一軍から遠ざかる。 1986年に右肩軟骨摘出手術を受け、1988年には野手に転向したが、一軍へ上がることは出来ず、現役を引退した。 現在は秋田市手形山中町でスポーツ店(クドウスポーツ)を経営しながら、社会人野球チームの由利本荘ベースボールクラブの監督兼投手を務めている〔工藤幹夫(5)野球通じた人脈支えに - 読売新聞秋田支局記事〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「工藤幹夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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