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左思[さ し]
左 思(さ し、生没年不明、一説に252年 - 307年頃〔葉日光『左思生平及其詩之折論』(台湾文史哲出版社、1979年)より〕)は、中国西晋の文学者。字は太沖。斉国臨淄(現山東省)の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れ、代表作「三都賦」は「洛陽の紙価を高からしむ」の故事の由来となった。妹の左棻も詩文の才能があり、司馬炎の妃となった。 == 略歴 == 史書によると、左思は寒門の出身の上、容貌は醜くどもりであったが、学問に励み文章に巧みであったという。 妹の左棻が西晋の武帝司馬炎の後宮に入ったので、首都の洛陽に家を移した。魏呉蜀三国の首都を題材にした「三都賦」の執筆を思い立ち、10年の歳月をかけてこれを完成させた。完成当初は世人の批判を浴びたが、当時の文壇の大御所である張華にこれを見せると、張華は班固の「両都賦」や張衡の「二京賦」に匹敵する傑作だと激賞し、無名の左思に名士の手を借りることを勧めた。左思が名士の皇甫謐に序文を書いてもらうと、「三都賦」の名声は大いに高まり、以前批判した者たちも手のひらを返して褒め称えたという〔『世説新語』文学篇より〕。人々が争って「三都賦」を筆写したため、洛陽城内の紙の値段が高騰したという逸話は、後に「洛陽の紙価を高からしむ」の故事となった。左思と同時代の文学者である陸機も、同じく「三都賦」の制作を構想していた。陸機は洛陽に上京すると左思の噂を聞いたが、弟の陸雲に手紙で「田舎者の『三都賦』が出来上がったら、酒瓶の覆いにするのがよかろう」といって、まるで相手にしていなかった。しかし完成した左思の賦を見るや、その出来映えに脱帽し、自身の制作を断念したという。 後に権臣の賈謐の招きに応じ『漢書』を講じた。300年、八王の乱で賈謐が趙王司馬倫に誅殺されると、官職を辞して隠棲し、典籍に没頭した。 303年、河間王司馬顒の将軍張方が洛陽で暴虐の限りを尽くすと、左思は家をあげて冀州に避難し、数年後に病没した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「左思」の詳細全文を読む
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