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多摩川緑地広場硬式野球場(たまがわりょくちひろばこうしきやきゅうじょう)は、日本の野球場。東京都大田区の多摩川左岸側河川敷内多摩川緑地広場の一角にある。 かつて昭和中期 - 後期(1950年代後期 - 1980年代中盤)に、プロ野球球団の読売ジャイアンツ(以下、巨人)がファーム(二軍)の本拠地球場(イースタン・リーグ所属)及び練習場としていた。当時の名称は巨人軍多摩川グラウンド(きょじんぐんたまがわグラウンド)だった。 多摩川田園調布緑地には硬式野球用のグラウンドが2面存在しており、このうち上流側にある硬式専用のA面が巨人が使用していた当球場である(下流側のB面は硬式・軟式兼用)。現在は草野球、少年野球などを中心に一般利用向けに供用されている。 巨人が使用していた当時は、同球団が施設の管理を行っていた。現在は多摩川緑地広場管理公社が大田区から業務を受託して運営管理を行っているが、一級河川である多摩川の河川敷にあるため、敷地は国(国土交通省)から借用している。 == 歴史 == 1955年、当時の建設省から巨人が敷地を借り受け、グラウンドの整備を行い、かつ、付随する施設を建設した。同年6月11日開場。巨人の第3期黄金時代(V9。1961年 - 1974年)を築いた城之内邦雄、森祇晶、長嶋茂雄、王貞治、黒江透修、柴田勲、土井正三、堀内恒夫、渡辺秀武、高橋一三、末次利光、高田繁といった名選手もこの多摩川の地で鍛え上げられた。 また同合宿所も多摩川グラウンドに近い丸子橋に在った。 1974年9月1日にこの地を襲った台風16号の影響で、グラウンドが水没し、約1ヶ月間使えなくなった。それより8年後の1982年の8月2日に襲った台風10号の時は約3週間使えなくなり、ベンチが流されグラウンドがヘドロまみれになるなど、この時の被害総額は3000万円以上となった。この年はさらに9月にも台風で水没している。なお両年とも巨人は中日ドラゴンズなどと優勝争いをしており、両年とも中日がリーグ優勝している〔【8月2日】1982年(昭57)多摩川グラウンド水没。巨人、8年前の悪夢再来 - スポーツニッポン 2009年8月〕。 1985年10月、東京都稲城市と神奈川県川崎市多摩区に跨るよみうりランドの敷地内に読売ジャイアンツ球場など新たな球団施設が完成したのに伴い、大田区内の施設は使用されなくなった。その後も巨人の選手が時折トレーニングに使用するなどしていたが、1998年3月31日を以て国との借用契約が満了した為、巨人からグラウンド及び施設が国に返還された。 施設貸借契約満了直前の3月18日には、巨人の一軍全選手が巨人軍多摩川グラウンドお別れイベントの一環として最後の練習を行った。その際には報道各社の現役巨人番記者のみならず、かつて巨人番を担当した野球記者OBも駆けつけた。また、3月22日には、巨人OBなどによるお別れセレモニーが行われ、OBによる紅白戦が行われた後、藤田元司がボールを投げ、森祇晶が捕手としてボールを捕って、1955年から続いた巨人軍多摩川グラウンドの歴史に幕を閉じた。契約満了後、グラウンド及び施設は国(建設省)から東京都大田区に移管されている。 前述のお別れセレモニー実施から15年後の2013年5月9日に巨人二軍の練習が1日限定で守備練習のみという形ではあるが行われ〔発案者は現ニ軍監督の岡崎郁〕、その折にはお別れセレモニーを行った当時の一軍監督である長嶋茂雄(現・終身名誉監督)も視察に訪れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多摩川緑地広場硬式野球場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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