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巨文島(コムンとう)は朝鮮半島の南部沿岸沖、済州海峡にある小群島()。3つの主要な島があり、うち2つの大きい島である西島(ソド)と東島(トンド)は、中央に小さな島(古島、コド、)を有する入り江を形成している。古島には1885年から1887年の間、イギリスの海軍基地が設置されていた。 丁汝昌が来島した際、筆談で情報交換を行った当地の儒者を「ここは大いなる文の島である」と褒め称えたことによって、巨文島という名が付いたという言い伝えがある〔中村均 (1994) 54-55頁。〕。しかし、当時の外交文書や朝鮮王朝実録で、すでに「巨島」「巨文島」と言う語が用いられていることから、そうではないとする研究もある〔呂博東 (1994) 「巨文島の自然地理的環境と歴史的背景」『日本植民地と文化変容 - 韓国・巨文島』所収、40頁。〕。 行政上、巨文島は全羅南道麗水市三山面の一部で、古島には三山面事務所がある。島々は多島海海上国立公園の一部でもある。 == 歴史 == 巨文島は1845年、イギリス軍艦サマラン号の艦長、エドワード・ベルチャー (Sir Edward Belcher) によって調査され、その後当時の海軍事務長官 W.A.B.ハミルトン大佐 (W. A. B. Hamilton) にちなんで、ポート・ハミルトンと命名された。 ロシア帝国のプチャーチン提督も、巨文島の戦略的重要性に注目した。日本と開国の交渉を行っている最中の1854年4月、彼はフリゲート艦パルラダ号を旗艦とする3隻の艦隊を率いて巨文島を訪れ、また住民を艦隊に招いて交際した。プチャーチンの秘書として航海に随行したイワン・ゴンチャロフが、この時の模様を巡航記に書き残しており、当時の巨文島の生活を伺うことのできる資料となっている〔呂博東 (1994) 49-50頁、中村均 (1994) 28-34頁に一部が引用されている。〕。プチャーチンは11日間停泊した後に、対日交渉のために長崎へ向かった。1857年に再び巨文島を訪れ、住民より貯炭所を設置する許可を得たが、石炭の供給の遅れにより計画は放棄された〔呂博東 (1994) 51-52頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巨文島」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Port Hamilton 」があります。 スポンサード リンク
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