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己卯士禍[きぼうしか] 己卯士禍(きぼうしか)は、李氏朝鮮中期の1519年(中宗14)に、士林派のリーダー的存在であった趙光祖(チョ・グァンジョ)を中心とする急進的な若手官僚の多くが、保守的な勲旧派の中宗への上疏によって失脚させられた事件。発生した年の干支をとって「己卯士禍」と呼ばれ、この時犠牲となった儒臣たちは、のちに「己卯名賢」と呼ばれるようになった。 == 事件の背景 == 1506年に、異母兄・燕山君の暴政に対する政変(中宗反正、중종반정、別名:朴元宗の乱)によって国王となった中宗は、即位の当初は反正の功臣勢力によって押さえこまれて、政治の主導権を発揮できずにいたが、1510年(中宗5)に反正の第一功労者であった勲旧派のが死去してからは、功臣勢力を牽制するために、燕山君時代の士禍をくぐり抜けた地方出身の若手士林派を登用して、自らも父成宗にならって、新旧勢力の均衡の上に立った理想政治を目指すようになった。 そんなときに、中宗の前に現われたのが趙光祖であった。趙光祖は、1510年に進士に及第して成均館に入り、その豊かな学識と厳格で清廉な人柄で、若くして尊敬を集めていた。中宗は趙光祖の評判を聞いて引見し、ひと目で魅了された。中宗の厚い信任をえた趙光祖は、短期間に司憲府の大司憲にまで登用され、1515年(中宗10)から1519年(中宗14)までの4年間に、勲臣派や保守勢力の反対を押し切りながら、彼の信望者とともに「道学政治」を理想とする数々の急進的な改革を実践していった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「己卯士禍」の詳細全文を読む
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