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巻上 公一(まきがみ こういち、1956年1月25日 - )は日本の音楽家、プロデューサー。作詞、作曲家であり、歌手に留まらないヴォイスパフォーマーとして国際的に知られている。演奏は、口琴、テルミンなどの特殊なものから、コルネット、ベース、エレクトロニクスなど複数の楽器をこなす。静岡県熱海市出身。神奈川県立小田原高等学校卒。 ノンジャンルなバンド「ヒカシュー」のリーダーである。デビュー当時は「テクノ御三家」の一つにも数えられたが、例外を作り出す音楽を真骨頂としている希有なバンドとして長期的に活動している。自らをパタフィジックソングとインプロのグループと定義している。 == 略歴 == 中学校時代、美術部で井上誠と知りあう。当時は8ミリフィルムのスクラッチング作品を作っていた。 高校時代、戸辺淳(哲の兄)と劇団ユリシーズを結成。海琳正道(現・三田超人)を劇団の活動に引き抜く。 その他に、3年間新聞部の部長も務め、パトス派ながら、全国大会2位。首都圏最優秀など軒並み受賞する。 その後輩に後に「フールズメイト」を創刊する北村昌士がいた〔そのため、初期「フールズメイト」の編集部は、巻上宅内にあった。〕。 高校在学中に、劇団「東京キッドブラザーズ」のオーディションを受け、ロックミュージカル「ザ・シティ」海外公演に出演する。ニューヨークではラママ劇場、ロンドンではロイヤル・コート・シアターでの長期公演を経験する。ロンドンでキッドを退団。楠原映二とヒラリー・ウェストレイクに誘われ、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズがパトロンをしていたフリンジ劇団「ルミエール&サン」に参加。ヘンリー・カウが音楽を担当する劇団でもあり、ここで即興の多くを学ぶ。 帰国後、原宿学校(現在の東京映像学院)で映画を学びながら、キッドを一緒に退団した深水三章、堀勉とともにミスタースリムカンパニーの旗揚げに参加。プロデューサーを務める。 また同時に自身の劇団「ユリシーズ」を1976年に再結成。 1977年に虫の一生を描く前衛パフォーマンス「コレクティングネット」の音楽を山下康・井上誠に依頼した。 1978年に第2弾「幼虫の危機」を上演。この時「プヨプヨ」「幼虫の危機」などの作品が生まれた。 これらの歌をもとにその年の夏、「ヒカシュー」を結成。吉祥寺の羅宇屋でデビューした。 1981年には、巻上がかつて通っていた原宿学校(現在の東京映像学院)シナリオ科での講師であった、佐藤重臣に依頼し、トッド・ブラウニングの映画『フリークス』の上映イベントを行う。 また、同1981年には村上春樹原作、大森一樹監督作品『風の歌を聴け』に鼠役で出演した。映画では劇中劇の挿入歌もヒカシューとして提供している。また、スペクトラムなど他アーティストの楽曲を作詞することもある。 他にこの頃、南伸坊提唱・糸井重里命名のパフォーマンス集団「HAND-JOE」に、末井昭、上杉清文、鈴木祐弘、山崎邦彦らと参加。また、写真家・滝本淳助も加えて「ハンジョウ・オール・スターズ(H.A.S.)」として音楽活動も行った。 なお、ヒカシューは唯一無二の音楽バンドとして現在も活動を続けている。 1995年にニューヨークのJohn ZornのTZADIKレーベルから出したソロヴォイスアルバム「KUCHINOHA」をきっかけに、ヨーロッパや北米のコンテンポラリーミュージックのフェスティバルに招聘されるようになる。 また、トゥバ共和国やモンゴルなどの伝統的な歌唱法「ホーミー ホーメイ(喉歌)」の研究者・歌手としても知られている〔『∀ガンダム』主題歌「ターンAターン」西城秀樹)の冒頭などでそれを聴く事ができる。〕。 1994年(平成6年)に、来日中のトゥバ共和国のホーメイ歌手の歌を聴いて魅了され、その場で頼んで習い始めた。翌年にはトゥバ共和国を訪問。以来毎年訪問しては現地の演奏家と交流を続けている。 また日本国内でもホーメイを教える催しを続けている〔倉重奈苗「トゥバ共和国と私 自由な旋律に魅せられて 歌唱家・巻上公一さん」『朝日新聞』(朝刊)2008年5月27日付、7面。〕。 1998年に作演出音楽を担当した世界初の口琴室内オペラ「ホムス〜ぼくは頭をびょんびょんした」で、スイスの超絶口琴演奏家アントン・ブリューヒンを招聘。口琴ブームの火付け役となった(知久寿焼や時々自動の朝比奈尚行はこれをきっかけに口琴を知る)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巻上公一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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