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市丸利之助[いちまる りのすけ]
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人である。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。 == 経歴 == 日本海軍の航空草創期のパイロットである。訓練飛行中に操縦索が切れ、搭乗機が墜落し右大腿骨、頭蓋骨、顔面を骨折した〔『太平洋戦争名将勇将総覧』土門周平「海軍中将 市丸利之助」〕。再手術を行うなどして、 療養生活は3年近くに及ぶ。復帰後、予科練設立委員長となり、次いで初代部長として教育にあたる。市丸の指導は教育学的にも評価され、市丸は予科練育ての親といわれる。太平洋戦争において第二十一航空戦隊司令官として南方戦線で指揮をとり、次いで第十三連合航空隊司令官として内地防空にあたる。1944年(昭和19年)に第二十七航空戦隊司令官として硫黄島に赴任し、翌年の硫黄島の戦いで戦死した。市丸の戦死の状況は明確ではないが〔『回想の日本海軍』「市丸海軍少将の遺書」〕、アメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙を残し戦後有名となる。手紙はアナポリス博物館に保管されている。なお市丸は同期生で自決した草刈英治とは親友の間柄であった〔『嗚呼、草刈少佐』市丸利之助「心兄 草刈英治君」〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市丸利之助」の詳細全文を読む
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