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市川清流[いちかわ せいりゆう]
市川 清流(いちかわ・せいりゆう、文政7年(1824年) - 没年未詳)は江戸時代から明治時代初期の官吏・漢学者・国学者。日本における近代図書館創設の功労者の一人。「博物館」という訳語の創作者。名は皡、渡。 ==経歴==
出生地や学問の師について拠るべき史料がない〔後藤(1976):160ページ〕。三重県の志摩市議会の広報紙『しまし議会だより 第25号』によれば、市川は現在の三重県志摩市磯部町山原(当時の伊勢国度会郡山原村)の出身であるとされ、同地の正伝寺には「市川清流翁碑」が建立されている〔議会広報特別委員会 編(2011):1ページ〕。国学を主に学び、書道に優れ、漢学に深い知識を持っていた。幕末の外交官である岩瀬忠震の家臣となり、安政2年(1855年)ロシア使節のエフィム・プチャーチンと交渉する忠震に随行し下田・戸田港に出張している。文久元年(1861年)に岩瀬家が断絶し主君を失った直後に、松平康直の従者として文久遣欧使節の一員となる。文久3年(1863年)の1月に帰国し、ヨーロッパでの見聞をまとめ『尾蠅欧行漫録』として公刊。この『尾蠅欧行漫録』の文久2年4月24日(1862年5月22日)の項に「今日御三使博物館ニ行カル」とあり、British Museum(大英博物館)に「博物館」という訳語を当てたのは清流が初めてであると考えられている。 明治2年(1869年)に、文部省の中写字生となり、翌年に大写字生に昇進。明治4年(1871年)の9月に編輯局に移り、箕作麟祥に従い翻訳の補佐をする。明治5年(1872年)4月頃、「書籍院建設ノ儀」という建白書を上げ、ヨーロッパ流の図書館の必要を訴えている。 明治8年(1875年)2月の時点で翻訳局十等出仕として勤務が確認でき、11月までには職を辞し、同じ遣欧使節団にいた福地源一郎の招きにより日報社に入社し、校正主任として活動。校正業務の「煩劇に耐えかねて」か、1年後に退社。明治11年(1878年)まで著作と校訂・編纂に従事したが、その後の消息は明らかでない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川清流」の詳細全文を読む
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