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寄席(よせ)とは、日本の都市において講談・落語・浪曲・萬歳(から漫才)・過去に於いての義太夫(特に女義太夫)、などの技芸(演芸)を観客に見せるため席亭(興行主)が経営する常設の興行小屋である。 == 概要 == 講談が一番古い歴史を持つ。明治・大正期までは、落語以外の講談や浪曲や義太夫の常寄席が存在し、明治末から大正にかけての活動写真館(のちの映画館)の爆発的な増加、ラジオの登場、興行系娯楽のライバルである小劇場や寄席の数が激減していく中で、東京では落語を主にかける寄席(色物席)のみが比較的多く残った〔権田保之助「民衆娯楽論」『権田保之助著作集 第2巻』〕。現在は意味範囲が若干変遷し、落語(講談・浪曲)以外の演目は色物と呼び、区別する。最後の演者(本来の「真打」)は基本的に落語であり、主任(トリ)と呼ばれ、その名前は寄席の看板でも一番太く大きな文字で飾られる。トリになれるのは基本的に真打の落語家のみだが、ごくまれに真打以外の落語家や落語以外の演者がトリとなる場合がある。 歴史が長く、今もおなじみの色物演目には、音曲・物まね(声色遣い)・太神楽・曲独楽・手品・紙切り・(大正時代からの)漫談・腹話術などがあり、下火になった演目にかっぽれ、新内、デロレン祭文、源氏節、八人芸(現在は見られない)。主に地域芸能としての道を行くものに八木節、安来節、江州音頭(河内音頭)などがある。(西洋由来のコントは比較的新しい演目である。ストリップも参照のこと)多くは大道芸として野天やヒラキと呼ばれるよしず張りの粗末な小屋から始まり、寄席芸に転化していった。 経営や後継問題により数は減ったが、お座敷芸より連なる伝統的芸能を支える空間としての役割を果たしながら、「悪場所」「悪所」と呼ばれてきた都市文化の華としての地位を江戸時代初期から守っている。商店の広間や、自治体の市民会館などでも落語などの口演が行われ、「地域寄席」と呼ばれる。 定席とは、本来毎月休むことなく開演している寄席、程度の意味であるが、狭義の寄席として東京の鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場の四席のみとされ、落語関係者のみならず演芸関係者一同〔日本演芸家連合〕が開設に尽力した国立演芸場や、実際は準定席といって過言ではない永谷の演芸場さえも含めない場合が多い。〔寄席小屋と呼ぶが、現在ではほとんどが小屋ではなく鉄筋鉄骨の建物である。〕 また「演芸場」「劇場」との名称の混乱が今も見られるが(劇場を表す「座」の扱われ方に象徴的である)、法律で定められた興行系娯楽は「劇場」「寄席」(あとは観セ物→「映画館」が独立)が種別であり、総称として「演芸場」があったが、実際の運用ではその壁を飛び越えたり〔明治40年の桃中軒雲右衛門以来、浪曲がいち早く大劇場に進出した〕、また地方部の興行場においては「未分化」の状態であった〔#権田p.282-283〕事の影響が未だに残っているのである〔昭和30年代半ばまで色濃く残っていたことは、宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112〕。大阪のマンモス寄席(角座)もその範疇に入るものである。 2006年9月15日に大阪天満宮横に、大阪では半世紀ぶりの寄席となる「天満天神繁昌亭」が開場した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寄席」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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