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帰って来たヨッパライ : ウィキペディア日本語版
帰って来たヨッパライ[かえってきたよっぱらい]

帰って来たヨッパライ」(かえってきたヨッパライ)は、ザ・フォーク・クルセダーズのデビューシングルであり、同グループの代表曲である。
一般には「帰ってきたヨッパライ」と曲名が表記されることが多いが、初版レコードでは「帰って来たヨッパライ」となっている。キャピトルレコードによる英文曲名表記は “I ONLY LIVE TWICE” 〔当時の日本においては、洋楽レーベル(もしくはそれに近い和製洋楽レーベル)を通じて発売される和製ポップスレコードレーベルには、洋楽レーベルという建前上、でたらめ(悪く言えば)な英語題名が併記されることが多々あった。〕〔主な英語題名併記のレーベル → キャピトル・エキスプレス・リバティ(東芝音工)、CBS・L盤・P盤・デノン(日本コロムビア)、ポリドール(洋盤発売分のみ。日本グラモフォン)。この他、フィリップス(日本ビクター)、ユニオン(テイチク)にも一部あり。因みにCBSソニーは1970年代前半まで、演歌・歌謡曲などの邦楽にも、英語題名を併記していた。〕。この英題は映画 ' のもじりである。 のもじりである。
== 解説 ==

1967年12月25日に東芝音楽工業(のちの東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサルミュージック/EMIレコーズ・ジャパンレーベル)の洋楽レーベル・キャピトルレコードからシングル盤が発売され、ラジオ関西で放送されると、早回しのテープと奇想天外な歌詞で反響を呼んだ(レコード番号CP-1014、B面は「ソーラン節」を収録)。「アングラ・フォーク」のブームを生み出した曲である。オリコンチャート史上初のミリオン・シングルで日本のコミックソングの代表的な作品。
飲酒運転で事故死した「オラ(自分)」が天国へ登るが、その天国でも酒と女に浮かれ、「神様」から「お仕置き」を受ける顛末を、テープの高速回転による甲高い声と伴奏で語る歌である。語り手の「オラ」は、巻頭いきなり「自分は死んでしまった」という内容のフレーズを繰り返し、田舎言葉でみずからの行状を語る。
途中で2度挿入される「神様」の説教は通常速度で録音され、早回しの伴奏にオーバーダビングしてある。「神様」の説教は北山修によるスローな関西弁で、バックに流れる天国と地獄とギャップがある。
メロディ自体はシンプルなリフを繰り返すもので、民謡「草津節」の有名な歌い出し「草津良いとこ一度はおいで」をもじった歌詞も詠み込まれる。曲の間奏はビートルズの「グッド・デイ・サンシャイン」の間奏がパロディ風に演奏され、最後の僧侶の読経ではお経に交えて同じくビートルズの「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (A Hard Day's Night)」の歌詞の冒頭が読まれる。そしてベートーヴェンバガテルエリーゼのために」が奏されフェイドアウトしていく。
もともとは、「フォーク・クルセイダーズ」名義だったインディーズ(自主制作)LPの『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ』に収められていた曲である。当時のフォークルのメンバーは北山修、加藤和彦、平沼義男、芦田雅喜の4人であったが、芦田がヨーロッパ旅行に出かけることになり、解散記念として自主制作LPを録音した。彼らが好きだった名作のカバーの中に、1曲のオリジナル作品を含めることが決まり、本作はその時に生み出された〔製作経緯については『フォークル大百科事典』(CD、TOCT-8844)の解説書を参照した。〕。
1967年11月5日に、この曲がラジオ関西の深夜番組『若さでアタック』で放送されて近畿地方で密かなブームとなり〔田家秀樹『読むJ‐POP―1945‐1999私的全史 あの時を忘れない』徳間書店、1999年、117頁。ISBN 4-19-861057-6〕、それを聞き付けて原盤権を獲得したパシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィックミュージック)の専務だった高崎一郎が自らパーソナリティを務める『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)で流したところこれがきっかけとなり、たちまち日本全国に反響が広がった〔。PMPで実際に獲得交渉にあたった朝妻一郎と朝妻にこの曲を紹介した音楽評論家木崎義二の対談〔朝妻一郎『ヒットこそすべて ~オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』(白夜書房)〕によると、高崎がPMP社長でニッポン放送常務だった石田達郎にこの曲を聴かせたところ、石田は「この曲はオールナイトニッポンだけでかけろ」と指示。相乗効果でオールナイトニッポンも人気番組となった。
それで当時の全てのメジャー・レーベルがフォーク・クルセダーズとシングル盤の発売交渉を行ったが、東芝だけがフォークル側の「年内発売」の条件を受け入れ、彼らが吹き込んだ当初のモノラル録音のテープで発売する権利を得た〔ただし、Musicman-NET Musicman's RELAY 第71回 加藤和彦氏 によると、高崎一郎と当時東芝のディレクターだった高嶋弘之から熱心に誘われ、東芝が持っていた「キャピトル」レーベルの使用を条件に契約したという。〕。この事がきっかけで、レコード会社の「原盤制作権」がクローズアップされることにもなった。シングル盤の売上は累計283万枚に達した〔。
早回しテープを使った曲であるため、コンサートでそのまま再現演奏することができないと思われがちだがロックアレンジで演奏されることもあった。このときは端田がメインボーカルを取っている(レコーディング時のボーカルと12弦ギターは、加藤和彦)。2002年のフォーク・クルセダーズ新結成では、フォークルの演奏(アコースティック)にゲストの泉谷しげるが普通の声で歌っている。
なお、加藤が生前最後のニッポン放送でのインタビューにおいて、「早回し録音を北山修宅の居間で行った。北山宅に語学学習用のオープンリールレコーダーがあり、それを用いて早回しボーカルの録音を行ったが、早回し録音であるが故に、音程が合わず一日がかりで録音した」との苦労を語っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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