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常磐津文字太夫[ときわづ もじたゆう] 常磐津 文字太夫(ときわづ もじたゆう)は、常磐津節宗家家元の大名跡。当代は十七世家元・九代目常磐津文字太夫。常磐津は古浄瑠璃時代からの流れをくみ取り、初世家元を、大阪道頓堀で最古の人形操りの芝居小屋(出羽座)を興行した太夫「伊藤出羽掾」、二世家元をその弟子で世話物浄瑠璃元祖ともいわれる「文弥の泣き節」で好評を博した「二代目岡本文弥」、三世家元を京都南座の前身「都万太夫座」を創立し、近松門左衛門、初代坂田藤十郎とくみ元禄期の全盛を迎えた「都越後掾」、四世家元をその弟子で一中節を創始した「都太夫一中(都一中)」、五世家元をその弟子の「宮古路豊後掾(都国太夫半中)」、そして、常磐津を創始した初代常磐津文字太夫を六世家元と数えている。 == 初代 == 宝永6年(1709年)-天明元年(1781年)。 常磐津六世家元。常磐津節の創始者。本名・駿河屋文右衛門。京都の仏具商。享保初期頃に宮古路国太夫(宮古路豊後掾)の門弟となり、のちに養子となる。はじめ宮古路右膳を名乗っていたが、1733年に宮古路文字太夫と改名し京都から名古屋を経て江戸に下り、1735年に好評を博した豊後掾の出世作「睦月連理玉椿」でワキ語りを勤める。1736年3月市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなったが、町奉行より風紀を乱すとの理由で豊後節は全面禁止となる。装いが文金風といわれ弾圧の対象となったのは、年齢的に考えると豊後掾ではなく、文字太夫であったという説がある。1736年に豊後節が禁止され、1740年に養父豊後掾が亡くなり豊後節が分派活動を始めたが、やがて豊後節の再興が許され、1747年に宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗った。しかし、「関東の名は穏やかならず」と北町奉行から禁止されると、同年11月に中村座において、二代目市川團十郎、初代澤村宗十郎、初代瀬川菊之丞が揃った「三千両の顔見世」で常磐津文字太夫の看板を掲げた。以後30年近く江戸三座に出演、1773年市村座「錦敷色義仲」を最後に引退した。「宝暦3年(1753年)春、市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。壕越二三治との合作で「芥川紅葉柵」等を作曲。文字太夫の節付けの面白さ、巧妙な作詞、役者による優れた所作と三拍子が揃ったので、豊後節を継承した新らしい浄瑠璃としての常磐津が江戸歌舞伎に定着する端緒となった。隠居名(号)松根亭松寿斎。 代表曲:「老松」「蜘蛛の糸」「子宝」
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常磐津文字太夫」の詳細全文を読む
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