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干 宝(干寶、かん ぽう、? - 336年)は、東晋の政治家・文人。字は令升。新蔡(現在の河南省新蔡県)の人。『晋書』に伝がある。 == 生涯 == 祖父の干統は、呉の奮武将軍・都亭侯、父の干瑩は丹楊県丞を務めていた。 幼いときより読書を好んだという。その才能により召されて佐著作郎として朝廷に仕えた。杜弢の反乱平定に功があり、関内侯になった。 当時の東晋は中興が始まったばかりであったため、史官が設置されていなかった。中書監王導は元帝に対して史官の設置を提言し、その人材として干宝を推薦した。干宝は元帝から認められて国史編纂の任務を兼任するようになった。そして宣帝から愍帝までの53年の事績を20巻にまとめて著し、『晋紀』と題して上奏した。内容が簡明で正すべきところは正し、婉曲にすべきところは婉曲であったため、干宝は良吏と評価されたという。 家が貧しかったため、自らすすんで山陰県令となり、さらに始安太守を務めた。王導の招きを受けて司徒右長史となり、散騎常侍に至った。 咸康二年(336年)に亡くなったという〔許嵩『建康実録』巻七〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「干宝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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