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平井収二郎[ひらい しゅうじろう] 平井 収二郎(ひらい しゅうじろう、天保6年7月14日(1835年8月8日) - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は、幕末の土佐藩士。諱は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。 == 生涯 == 1835年8月、土佐藩士(新留守居組格、三人扶持10石)平井伝八直証(直澄)の嫡子として土佐郡久万村に生まれる。 1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿や薩摩藩、長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。また、安政の大獄で処罰された水戸藩士鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。 のち、土佐勤王党が構想する運営方針を藩が容れないのを憂慮し、青蓮院宮に令旨を請いて藩政改革を迫る。しかし、前藩主山内容堂が青蓮院宮を問い詰めて実情を聞き出したことによって計画は失敗し、間崎哲馬、弘瀬健太と共に切腹を命ぜられる。享年29(28とする説もある)。
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