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平塚 八兵衛(ひらつか はちべえ、1913年(大正2年)9月22日 - 1979年(昭和54年)10月30日)は、警視庁に在籍した刑事警察官である。茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)出身。警察功労章、警察功績章受章。退職時の階級は警視。 == 人物 == 旧制常総学院中学校卒。卒業後は土浦で農業に従事していたが、ある事件で誤認逮捕され、土浦警察署での取調中に殴る蹴るの暴行を加えられる。この暴行の経験に発憤し、警察官になろうと決意して上京、警視庁に入庁する。 子供の頃から気性は荒いが、頭が良い子供で「ガキ大将」のような子供だった。喧嘩では大人の喧嘩ですら話し合いで説得させるような子供で昔から話術に長けていたり、正義感の強い子供で曲がった事は嫌いだった。貧しい家庭ながらも家族を大切にする子供で、農作業も進んで行っていた。特に母や姉妹を大事にする子だったらしく、姉が嫁に行く時には「いやだいやだ 僕も一緒に行く」と大泣きしたり、体が弱い妹をいつも気遣って、あちこちを回り農作業を手伝ったお礼のお菓子や食べ物を全て食べずに必ず床に伏せっている妹のために持ち帰った。妹が風邪をこじらせ亡くなった時には、肩を落として火葬されるまでずっと冷たくなった妹と添い寝し、「妹が心配して成仏出来ないだろう」と火葬まで泣かなかったが、焼かれた妹を見ると骨を拾う事すら出来ないほど大泣きしていたという。 1939年(昭和14年)、鳥居坂警察署(現・麻布警察署)に配置される。当初は外勤(交番勤務)であったが、検挙率が同庁でトップになり、間もなく「花の捜査一課」へ異動する。以後、1943年(昭和18年)から1975年(同50年)3月の退職まで刑事部捜査一課一筋。 「落としの八兵衛」「喧嘩八兵衛」「鬼の八兵衛」「捜査の神様」など数々の異名で知られる敏腕の刑事であった。在任中に手がけた事件は殺人だけでも124件に上り、後述するような戦後の大事件の捜査でも第一線に立ち続けた。その中でも特に平塚の名を高めたものとしては、犯人に身代金を奪取された後に犯人の声をメディアに大々的に報道されて国民的関心事となる中で迷宮入り寸前になり戦後最大の誘拐事件と言われた吉展ちゃん誘拐殺人事件において、犯人の小原保のアリバイを崩して自供に至らせた粘り強い取り調べがある。またこの小原が死刑を執行される直前に、「私は今度生まれるときは真人間になって生まれてきます。どうか、平塚さんに伝えてください」と言い残した事も有名。 三億円事件捜査主任を最後に退職。三億円事件の公訴時効が成立する9ヶ月前の退職であった。その年に毎日新聞と産経新聞に捜査事件のレビューが掲載された。吉展ちゃん事件は両紙とも大きく取り上げたが、帝銀事件・下山事件は毎日新聞は短く掲載した。その後事件のコメンテーターとして、テレビや映画『実録三億円事件 時効成立』(1975年 東映)に出演した。退職から4年後に、膵臓癌により死去。享年66。逮捕した被疑者は極刑に処せられた者も多かったが、結局、帝銀事件の死刑囚である平沢貞通より先に鬼籍に入った。 巡査から巡査部長・警部補・警部・警視とすべて無試験で昇任。また、退職までに警視総監賞を94回受賞したのをはじめとして、帝銀事件で警察功労章を、吉展ちゃん誘拐殺人事件で警察功績章をそれぞれ受章している。なお、長年在職中に両章を受章しているのは平塚八兵衛だけであるとされてきたが、これは誤りで、それ以前に両章の受章者がが、顕著な功績を残した優秀な刑事であったとされていたが帝銀事件のように。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平塚八兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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