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平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 廣義、1875年9月2日 - 1948年1月26日)は、日本の内務官僚〔臺灣新聞, p.26.〕。1府3県の知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員などをつとめた。正三位勲二等、山形県士族〔。父は新庄藩士の平塚榮次郎〔、弟は蚕糸学者で文化功労者の平塚英吉、長男は俳優・著述家の九重京司(本名・平塚広雄)である〔キネ旬, p.207-208.〕〔九重京司 、コトバンク、2015年3月10日閲覧。〕。 == 来歴 == * 1875年(明治8年)9月2日 - 山形県最上郡新庄小田島町(現在の同県新庄市小田島町)に生まれる〔。やがて第二高等学校に進学する。 * 1902年(明治35年)3月 - 東京帝国大学法科大学政治科を卒業、内務省に入省する。三重県事務官・警察部長、新潟県事務官・警察部長、神奈川県事務官・警察部長、愛媛県・新潟県・兵庫県内務部長を歴任。 * 1916年(大正5年)6月2日 - 1922年(大正11年)10月16日 - 栃木県知事を務める。 * 1922年(大正11年)10月16日 - 1923年(大正12年)10月25日 - 長崎県知事を務める。 * 1923年(大正12年)10月25日 - 1925年(大正14年)9月16日 - 兵庫県知事を務める。 * 1925年(大正14年)9月16日 - 1929年(昭和4年)7月5日 - 東京府知事を務める。 * 1932年(昭和7年)1月13日 - 1936年(昭和11年)9月2日 - 台湾総督府総務長官を務める。台湾拓殖副社長を兼務。 * 1939年(昭和14年)12月19日 - 貴族院勅選議員に勅任される。当時は正三位勲二等。 * 1947年(昭和22年)5月2日 - 貴族院廃止に伴い、貴族院議員を失職。 * 1947年(昭和22年)6月3日 - 参議院 全国選出議員選挙管理委員会委員および同委員長を辞任する。 * 1948年(昭和23年)1月26日 - 死去。満72歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平塚広義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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