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平安貴族(へいあんきぞく)とは、平安時代の貴族をさす概念。平安貴族という明確な実態があったわけではないが、平安中期-後期にかけて貴族層による政治的・社会経済的・文化的支配が展開したため、同時期の貴族を表すための用語として使われることが多い。戦前は、平安時代の貴族は天皇から政治実権を奪い、京で遊興にふけった退廃的な存在としてとらえられがちだったが、戦後になり橋本義彦らによって平安期の貴族の実態が次第に明らかとされていった。 貴族#日本の貴族#古代も参照のこと。 == 略史 == 平安時代初期の貴族層を見ると、飛鳥時代の豪族層に出自する氏族がまだ上流貴族階層を構成していた。しかし時代が進むにつれ、天皇と濃密な姻戚関係を結んだ藤原氏一族のほか、源氏、橘氏、清原氏、菅原氏といった新興氏族が急速に上流貴族階層を占めていった。そのうち、天皇のミウチである藤原氏と源氏が議政官(公卿)をほぼ独占し始め、特に藤原北家嫡流は9世紀後半に天皇の政治決定権を受任・代行しうる摂政・関白の地位を獲得し、その地位を世襲することに成功した。 9世紀末から10世紀初頭にかけて、巨大な官僚組織と精緻な法令システムを前提とする律令国家体制の維持がもはや不可能となり、一定の行政司法権を地方官や中央官庁へ請け負わせる王朝国家体制が新たに成立した。政治の中枢を藤原氏と源氏が占有し始めたこの時期、栄達の望みがない中下流貴族らは地方官(受領)や特定官庁への補任をきそって求めた。これらの職についた中下流貴族らは自らが得た職の確保をはかり、職を「家業」として世襲することに努めている。これを家業の継承という。家業の観念は、10世紀から11世紀にかけて貴族層に定着していき、11世紀以降、多くの「家」が生まれた。例えば、摂関を家業とする摂関家(藤原北家)、弁官事務を家業とする官務家(小槻氏)、外記局事務を家業とする局務家(中原氏・清原氏)、武力行使を担当する兵の家(武家)などがある。このようにある氏族が特定の官庁運営を請け負う体制を官司請負制という。これらの「家」の頂点に君臨したのが、天皇を家業とする「天皇家」である。11世紀後半以降、天皇家の家督者は上皇・院という立場で天皇家を支配し、治天の君と呼ばれ政治の実権を握って院政を展開した。 平安中期に生まれた軍事貴族(武家貴族)も、元来は地下人(下級貴族)に属する平安貴族の一員だった。次第に武芸・武力を家業とする兵の家門が武家(武士)を統轄する武家の棟梁として発展して、地方官(受領)として赴任した際に現地の富豪百姓らとゆるやかな主従関係を結んだ。こうして軍事貴族や地方の富豪百姓らは武士へと成長していったが、その本質は平安貴族に他ならなかった。 平安後期になると、「家」内部で家業の継承をめぐる紛争が頻発し、12世紀中葉にはその紛争が武力衝突として具現化してしまった(保元の乱)。その後、軍事貴族の平清盛が平氏政権をうちたて、平氏政権打倒の過程で発生した治承・寿永の乱(源平合戦)の結果、東国に武家政権(鎌倉幕府)が登場することとなったが、その後も公家貴族たちは一定の政治実権を握り続けたのである(→公家政権)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平安貴族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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