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平岩愃保[ひらいわ よしやす]
平岩 愃保(ひらいわ よしやす、安政3年12月17日(1857年1月12日) - 昭和8年(1933年)7月26日)は日本の牧師、キリスト教界の指導者で日本メソヂスト教会第2代監督。平岩馨邦は次男。川上末は四女。 == 生涯 == 安政3年(1856年)、三代続いたキリシタン宗門改役の幕臣平岩馨明の長男として、江戸小石川に生まれる。 明治3年(1870年)市ヶ谷小学校教員となり、翌年には官費生として東京府立洋学校で学ぶ。更に翌々年には開成学校に入学、理化学を学ぶ。開成学校在学中に、カナダ・メソジスト教会の宣教師ジョージ・カクランに影響を受けてキリスト教に入信して、明治8年(1875年)に洗礼を受ける。その後献身を決意して、翌年に開成学校を退学。同年メソジストの教職試補に選任される。明治11年(1878年)牛込教会(現、頌栄教会)を開拓し、明治15年(1882年)には甲府教会に赴任、次いで静岡で牧会をして、山路愛山、高木壬太郎らを信仰に導いた。更に麻布、駒込、本郷中央会堂(現・日本基督教団本郷中央教会)などの牧師を歴任した。明治20年(1887年)には静岡女学校(後の静岡英和女学院)を創設。明治23年(1890年)には下谷教会で開拓伝道をして、翌年に按手礼を受け、最初のカナダ・メソジスト教会の牧師の一人になる。 明治44年(1911年)には関西学院院長に選出され、教育者として活躍した。カナダ・メソジスト教会の代表として、メソジスト三派の合同の尽力した。合同後は、日本メソジスト教会の指導者となった。 翌年には亡くなった本多庸一の後を継いで、第2代監督に就任。大正9年(1920年)渡米して、排日運動の激しいアメリカで日本の立場を遊説する。同年11月に東京都阿佐ケ谷に移り、自宅で集会を始める。それが後の、日本キリスト教団、阿佐ケ谷教会になる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平岩愃保」の詳細全文を読む
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