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平時信[たいら の ときのぶ] 平 時信(たいら の ときのぶ、生年未詳 - 久安5年7月26日(1149年8月30日))は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は検非違使・兵部権大輔・正五位下、贈左大臣・正一位。 == 生涯 == 文章生を経て検非違使、兵部権大輔となる。鳥羽法皇の判官代として仕え、康治元年(1142年)5月には法皇の東大寺での受戒にあたって藤原顕頼と共に奉行を務めた。翌康治2年(1143年)に正五位下に叙される。久安3年(1147年)に娘の時子が平清盛の継室となって三男宗盛を儲けている。 久安3年(1147年)3月、院や皇后の近臣が居住する五条京極辺りにあった時信の屋敷が火災によって焼失している。久安4年(1148年)2月、前年に娘婿である清盛の行動が発端となった祇園闘乱事件の報謝のため、祇園社で法華八講を行う準備に派遣されている。翌年久安5年(1149年)7月26日死去。 娘の滋子は、時信の死後に後白河法皇の寵妃となり、応保元年(1161年)に憲仁親王(のち高倉天皇)を産む。仁安3年(1168年)憲仁親王の即位によって天皇の外祖父となったことから、時信は左大臣・正一位を贈位された。 『本朝世紀』によれば、「天性柔順」で争いごとをしない性格で、その死は多くの人に惜しまれたという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平時信」の詳細全文を読む
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