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平松守彦 : ウィキペディア日本語版
平松守彦[ひらまつ もりひこ]
平松 守彦(ひらまつ もりひこ、1924年3月12日 - )は、日本政治家
関西大学政策創造学部客員教授立命館アジア太平洋大学 アドバイサリー・コミッティ名誉委員。
大分県の前知事で、「一村一品運動」の提唱者として有名である。
座右の銘は「継続は力なり」。
==経歴==
大分県大分市出身。大分中学五高を経て、東京大学法学部を卒業後、1949年昭和24年)旧商工省(後の通商産業省、現・経済産業省)に入省。同期には次官となった藤原一郎労相を歴任した牧野隆守大薗英夫(元日本自転車振興会理事長)、間淵直三(元東京工業品取引所理事長、元防衛庁装備局長)、井川博(元経済企画事務次官)など。
在官中は、佐橋滋の強い影響の下、政府指導の下での国内調整的な産業政策を重視するいわゆる通産省統制派といわれる官僚として活躍した。1957年4月、通産省企業局産業施設課長補佐(工業立地担当事務官)時代には、大分県に出張した際に木下郁県知事に、のちの大分臨海工業地帯となる臨海工業地帯構想を進言した〔『日本をデザインするキーパーソン』(田原総一朗潮出版社、1984年7月発行)P66~〕。1959年5月、日本コンピュータ業界が無かったなかで「コンピューター業界」を対象とした重工業局電子工業課が1957年の電子工業振興臨時措置法によって設けられ、その電子工業課長補佐に就任。メーカーに対して補助金と税金など優遇を付けることで、コンピュータ業界のテークオフに関わったのみならず、国内ユーザー相手にIBMよりも安くレンタルし、償却されたコンピュータも全て引き取るために日本電子計算機株式会社設立にも関わった〔同 P71~〕。
2009年ドラマ版の官僚たちの夏5話で描かれた、通産官僚と米コンピュータ社副社長の対決は、『計算機屋かく戦えり』に収録された平松へのインタビューでの証言(1960年のくだり)との一致がみられる〔なお、『~戦えり』にはIBM副社長について「バーゲンシュトック」とあるが、綴りはJames Warren Birkenstockである〕。
このように黎明期から日本のコンピュータ産業育成で大きな貢献をした。以後も、1964年 企業局産業公害課長、1969年 重工業局電子政策課長兼情報処理振興課長にてソフトウェア会社の資金調達を援助する情報処理振興法作りに関わり、ソフトウェア開発の債務保証を行う情報処理振興事業協会を設けた〔 過去の情報政策と情報産業に関する調査分析について 情報処理推進機構、2004年3月) p6~9〕。1970年代の、池田敏雄を産業界のパートナーとして進めたとされる三大コンピューターグループの形成は、世界的にIBMが独占しようとしていたコンピュータ産業において、日本企業が生き残る道を開いたと、特に評価される。1973年 基礎産業局総務課長、1974年 国土庁(現・国土交通省長官官房審議官などを経て、1975年7月 大分県副知事に。1979年(昭和54年)の知事就任と相次いで「一村一品運動」を提唱、当時イメージの薄かった大分県を全国に知らしめた。「一村一品運動」は地域経済に大いに貢献したとされ、1995年にはアジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞した。さらにアジアで活躍できる人材育成が必要であると考え、大学誘致を行い、それに賛同した京都市の学校法人立命館が別府市に立命館アジア太平洋大学2000年、開学している。知事を6期24年と、異例の長期間務め、2003年平成15年)に退任。2004年、旭日大綬章を受章。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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