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平松 時厚(ひらまつ ときあつ、1845年10月11日(弘化2年9月11日)- 1911年(明治44年)8月22日〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、420-422頁。〕)は、幕末の公家、明治期の官僚・検察官。新潟県令、元老院議官、貴族院子爵議員、錦鶏間祗候。 ==経歴== 少納言・平松時言の長男として生まれる。安政2年(1855年)に元服し昇殿を許され、甲斐権介に任じられた〔『明治維新人名辞典』825頁。〕。元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変に際して長州藩に加担し参朝停止などの処分を受け、慶応3年1月(1867年)に赦された〔〔『幕末維新大人名事典』下巻、354頁。〕。 戊辰戦争では慶応4年1月2日(1868年1月26日)征討将軍仁和寺宮嘉彰親王に随行を命ぜられ大坂に出陣し軍事書記役・軍監を務めた。同年2月20日(3月13日)参与に就任。以後、軍防事務局親兵掛、弁事、三河国裁判所総督、三河国兼遠江国鎮撫使を歴任。同年6月29日(8月17日)政府軍慰労のため東下。明治元年10月14日(1868年11月27日)権弁事に就任。以後、岩代国巡察使、民部官副知事心得を務めた。明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄50石を永世下賜された。同年7月8日(8月25日)宮内権大丞に就任〔「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 平松時厚」〕。 明治3年6月19日(1870年7月17日)第二次新潟県知事に就任。明治4年11月20日(1871年12月31日)第三次新潟県が成立し初代県令に就任。新政府の政策を推進したが、大河津分水掘削工事の負担に苦しむ農民等による悌輔騒動が発生し、明治5年5月24日(1872年6月29日)県令を免本官となった〔『新編日本の歴代知事』398頁。〕。 1876年12月淑子内親王祗候に就任。以後、宮内省御用掛、太政官内務部勤務、内務省御用掛、同省庶務局勤務、東京府麹町区長、宮内省編纂局勤務、同省宸翰御用掛、司法省御用掛、検事、東京控訴裁判所詰、大阪始審裁判所詰、大阪控訴院詰、長崎控訴院詰などを歴任。1884年7月8日、子爵を叙爵〔。 1890年6月12日、元老院議官に就任、同年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。同年7月16日、貴族院議員補欠に当選し貴族院子爵議員となり、死去するまで在任した〔〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平松時厚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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