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平業忠[たいら の なりただ] 平 業忠(たいら の なりただ、永暦元年(1160年) - 建暦2年8月16日(1212年9月12日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の院近臣。成忠とも表記される。大膳大夫・平信業の子。母は藤原基隆または藤原家範の娘。官位は正四位下・大膳大夫。 == 経歴 == 父・信業と供に後白河法皇に近臣として仕え、治承2年(1178年)従五位下に叙爵されるが、法皇と平清盛の対立による治承三年の政変で解官される。寿永2年(1183年)の法皇と源義仲の対立による法住寺合戦では、六条西洞院の業忠の邸が法皇の御所とされた。『平家物語』「河原合戦」の章段では、義仲によって法皇が幽閉された御所内から土塀に登って様子をうかがい、源義経率いる鎌倉源氏軍が来たことに喜び、転倒しながらも法皇に鎌倉軍の到着を伝えた場面が描かれている。 長きに亘り左馬権頭の官職にあったが、文治元年(1185年)11月に義経謀反への荷担を理由として、源頼朝の要請により左馬権頭を解官された。文治4年(1188年)1月24日大膳大夫に任ぜられる。建久3年(1192年)3月上北面であったが、後白河院崩御にあたり入棺役を務めた。 相撲による負傷が原因で、建暦2年(1212年)8月16日卒去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平業忠」の詳細全文を読む
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