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平賀 源内(ひらが げんない、享保13年〈1728年〉- 安永8年12月18日〈1780年1月24日〉)は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。 == 来歴 == 源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん)〔、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうち きがい)〔の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)などといった別名でも知られていた。 讃岐国寒川郡志度浦〔(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。 幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。 大坂、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する〔。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり〔さぬき市文化財保護協会志度支部 - 平賀源内記念館と平賀源内旧邸 2013年2月9日閲覧〕、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。 宝暦13年(1763年)には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行〔。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。 安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。 安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平賀源内」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hiraga Gennai 」があります。 スポンサード リンク
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