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平賀広相[ひらが ひろすけ]
平賀 広相(ひらが ひろすけ)は、戦国時代の武将。安芸の国人・平賀氏当主。大内氏に従属していたが、後に毛利氏家臣となった。 == 生涯 == 平賀氏は出羽を出自とし、鎌倉時代に安芸に移住して土着した一族とされている。戦国時代には他の安芸国の国人領主と同様、周防の大内氏の影響下にあった。しかし、出雲の尼子氏が台頭し、尼子晴久が安芸に侵攻した際には、父の興貞が尼子氏に通じて、大内氏側に留まった隠居の祖父・平賀弘保、隆宗・広相兄弟らと興貞は敵味方に分かれて戦っている。 天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いで尼子詮久(後の晴久)が敗れた後、尼子方に属していた父が隠居、兄隆宗が家督を継いだ。しかし、尼子氏に従った平賀氏は大内義隆の不興を買っていたためか、天文18年(1549年)、隆宗が備後に出陣中に戦没した際に、平賀氏の家督は広相ではなく、義隆の寵童で小早川氏出身の平賀隆保を養子として送り込んだ。広相ら平賀一族は忍従を強いられるが、転機は3年後に訪れた。天文20年(1551年)、大寧寺の変により義隆が自刃すると、広相は祖父と共に挙兵し、毛利元就の後援を受けて隆保を滅ぼして、平賀氏の家督を奪還した。 その後は毛利氏の忠実な家臣として活動し、天文24年(1555年)の厳島の戦いの前哨戦においても陶晴賢側の使者を捕らえて、安芸国内における晴賢の暗躍を元就に注進し、元就を決断させた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平賀広相」の詳細全文を読む
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