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平賀 徳太郎(ひらが とくたろう、1871年2月24日(明治4年1月6日) - 1919年(大正8年)5月13日〔『日本海軍史』第10巻、374-375頁。〕)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将 〔。 ==経歴== 広島県出身。平賀百左ヱ門の息子として生まれる。1891年(明治24年)7月、海軍兵学校(18期)を卒業し、1894年(明治27年)3月、海軍少尉任官〔。日清戦争では「海門」航海士として出征した〔『日本海軍将官辞典』、316-317頁。〕。1895年(明治28年)2月、「高千穂」分隊士となり、以後、「吉野」航海士、「八島」回航委員(イギリス出張)、同分隊長、「大島」航海長、「平遠」航海長、常備艦隊参謀、佐世保鎮守府参謀などを歴任し、1900年(明治33年)9月から1903年(明治36年)7月まで東宮武官を務めた〔。 1903年7月、「出雲」砲術長心得となり、同年9月、海軍少佐に昇進し「出雲」砲術長に就任。日露戦争に出征した〔〔。1905年(明治38年)4月、軍令部参謀・大本営海軍参謀・参謀本部部員に転任〔。 1908年(明治41年)12月から1912年(明治45年)5月まで、在米国大使館附武官としてワシントンD.C.に駐在。1911年(明治44年)12月、海軍大佐に進級した〔。 帰国後、1912年(大正元年)9月、「対馬」艦長となる。その後、「浅間」艦長、「生駒」艦長、舞鶴鎮守府参謀長、第3艦隊参謀長などを歴任。1916年(大正5年)12月、海軍少将に昇進した〔。 1917年(大正6年)5月、海軍教育本部第1部長兼第2部長に就任し、1918年(大正7年)7月、臨時教育会議委員に就任。同年11月に待命となり、1919年5月に現役で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平賀徳太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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