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平賀惟義 : ウィキペディア日本語版
大内惟義[おおうち これよし]

大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将鎌倉幕府御家人清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。
惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国多々良姓大内氏とは関係がない。
== 生涯 ==

=== 治承・寿永の乱 ===
惟義が史料に姿を現すのは『延慶本平家物語』では義仲追討戦、『吾妻鏡』では一ノ谷の戦いが初見であり、元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明である。『玉葉治承5年(1181年)7月1日条は、横田河原の戦いで平氏方の城助職が反乱軍に惨敗した記事であるが、反乱軍は「キソ党」「サコ党」「甲斐国武田之党」の三軍編成だったことが記されている。「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏と推察され、内乱前期の平賀氏は独立勢力として木曾義仲甲斐源氏などと共同戦線を張っていたことがうかがえる。寿永2年(1183年)、源頼朝は義仲を討つために信濃に出兵し、碓氷峠を越えて信濃国佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙している。信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、この時に平賀氏は義仲から離反して鎌倉の傘下に入ったと思われる。結果的に義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組という頼朝に有利な条件で和解が成立し、東国における頼朝の優位が確立した。それまで姿を現さなかった平賀氏が突如として鎌倉政権下で武蔵守という枢要な地位を与えられたのは、義仲からの離反に対する見返りだったとも考えられる。
惟義は一ノ谷の戦いの後に、伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。同国大内荘九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内冠者と記されるようになる。
同年、隣国・伊勢に潜伏していた志田義広が捕らえられた際には、惟義の家人が援軍として協力した。6月から7月にかけて同国で三日平氏の乱が起こり、平信兼率いる平氏の残党に襲われ多くの家人を失い、一旦国外へ逃亡する。鎌倉からは山内首藤経俊加藤景員光員らとともに平氏方余党の討伐を命じられるが、その指令が届く前に90余人の残党を討って鎮圧した。惟義は乱の鎮圧に対する恩賞を頼朝に求めたが、狼藉を鎮めるのは守護の務めであり、家人を殺害されたのは汝の落ち度であるので恩賞を求めるのは道理に叛くとして却下されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大内惟義」の詳細全文を読む



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