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平野 レミ(ひらの レミ、1947年(昭和22年)3月21日 - )は、日本の料理愛好家、タレント、シャンソン歌手。戸籍名:和田 レミ(わだ レミ、旧姓:平野)。父はフランス文学者の平野威馬雄。夫はイラストレーターの和田誠。長男はTRICERATOPSの和田唱。次男の妻はモデルで食育インストラクターの和田明日香。祖父は日本美術史家で法律家のヘンリイ・パイク・ブイ。 == 人物 == 東京都生まれ、千葉県松戸市で育つ。 料理番組を中心に活躍。終始テンションが高く、息つく間もないほどの早口で話すのが特徴。その明るいキャラクターがウケ、料理番組のみならずバラエティ番組(番組内の料理コーナー)にも出演する個性派料理研究家(自称は、「料理愛好家」である。2016.02.15 六輔七転八倒での本人の発言、「個性派料理研究家」との分類の根拠を求む)。 清水ミチコのモノマネレパートリの1人でもあり、実際に『スタジオパークからこんにちは』にて共演しており、面識がある。清水は平野の暴走振りに呆れながらも、お笑いの才能に「素晴らしい人材」と感嘆した一幕があった〔清水ミチコ 平野レミの暴走ぶりに「素晴らしい人材」 〕。 『きょうの料理』などでの自由奔放な立ち振る舞いと奇想天外な料理のアイディアから、一部のファンからは「生きる放送事故」とあだ名されている。 東京都立上野高等学校中退〔平野レミ『愛のオーロラ』(北欧社、1973年)〕後、文化学院在学中、佐藤美子にシャンソンを学び、日航ミュージックサロンで歌手デビューする。 やがてTBSラジオのディレクターから声がかかり〔『ド・レミの歌』p.39(中公文庫、1984年)によると、これはラジオのディレクターに配られていたレコード会社の新人宣伝書で平野レミと辺見マリの写真が入れ替わって刷られていたことが原因で、ディレクターは本来辺見マリと契約するつもりで平野と契約したのだという。〕、TBSラジオ番組『キンキン・ケンケンのそれ行け!歌謡曲』内の番組コーナー『ミュージック・キャラバン』(東京や関東近県の主にスーパーマーケット等の店頭等から公開生放送する番組。番組提供スポンサーは、「三井物産食品グループ」など)で久米宏とコンビを組み活躍し、番組内での一般観覧者が参加する、TBSラジオカー(中継車)と同行した車両に搭載し持参したジュークボックス(ジュークボックスのスピーカ部分には放送用のマイクを設置して生中継放送されていた)から、番組側が選んだジュークボックスの「曲番号」で掛かる曲が「男性歌手か?、女性歌手か?」と当てるゲームで、曲のイントロが流れて正解が判るまでの短い時間、平野が繰り返し叫んだ「男が出るか!女が出るか!」は、当時話題を呼んだ。その番組を聞いていた和田誠が平野に惚れ込んだことが縁で〔初め和田は久米宏にレミの紹介を頼んだが、久米は「絶対紹介しませんよ、あんな出歯!しょうががないですよ!!」と真剣に断った。平野レミ『ド・レミの歌』(中公文庫、1984年)の巻末に収録された黒柳徹子「レミちゃんのこと」p.215を参照。〕、1972年和田と出会って1週間で結婚した。 一時は育児・主婦業に専念していたが、両親が旨いもの好きという影響から家庭料理の研究にも力を入れるようになり、料理研究家ならぬ「料理愛好家」として再び表舞台で活躍しはじめた。料理番組に初出演したのはNHKの『きょうの料理』。初出演した放送回で扱った料理は牛肉とトマトの炒物であったが、材料のトマトを手で握りつぶして調理したため、多くのクレームを受けることとなった。また、後に放送内の「20分で夕御飯」では20分以内に料理を作り終えてしまった際には、シャンソン歌手としての特技を生かし、余った時間でオリジナルソングを歌い尺を稼いだことがある。 2007年公開のディズニー配給映画『レミーのおいしいレストラン』の日本でのプロモーションでは「料理親善大使」を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平野レミ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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