翻訳と辞書
Words near each other
・ 平野区韓国人母娘殺害事件
・ 平野千果子
・ 平野博文
・ 平野原送信所
・ 平野又三
・ 平野友康
・ 平野友明
・ 平野和盛
・ 平野和祥
・ 平野哲史
平野啓一郎
・ 平野啓子
・ 平野啓子と語りの子たち
・ 平野啓子の平成語り部文庫
・ 平野啓子の語りの世界
・ 平野啓子の語りの世界 (ラジオ番組)
・ 平野啓子の語りの子たち
・ 平野喜八郎
・ 平野嘉彦
・ 平野国臣


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

平野啓一郎 : ウィキペディア日本語版
平野啓一郎[ひらの けいいちろう]

平野 啓一郎(ひらの けいいちろう、1975年6月22日 - )は日本小説家
== 経歴 ==
愛知県蒲郡市で生まれたが1歳で父親(享年36)を亡くし、2歳から18歳まで母親の実家があった福岡県北九州市八幡西区で育つ。私立明治学園中学校を経て福岡県立東筑高等学校京都大学法学部卒業。高校時代に80枚の処女長編を執筆。大学では小野紀明ゼミ(政治思想史)に所属し、バーでのアルバイト、軽音サークル、小説の執筆などに重点を置いた生活を送る。
在学中の1998年、執筆に1年を費やした『日蝕』を『新潮』に投稿。15世紀フランスを舞台に神学僧の神秘体験を明治期の作家を思わせる擬古文で描いた作品で新人としては異例の一挙掲載がなされ、「三島由紀夫の再来」と喧伝されるなど華々しいデビューを飾る。翌1999年、『日蝕』により第120回芥川賞を当時最年少の23歳で受賞(ただし月数も考慮すると、平野は丸山健二より約6か月年長)。同年、泉鏡花風の幻想譚『一月物語』(いちげつものがたり)を発表。
2002年19世紀パリを舞台にショパンドラクロワジョルジュ・サンドらの織り成す人間模様を描いた『葬送』を刊行。『日蝕』『一月物語』と合わせて「ロマンティック三部作」とした〔文藝春秋|本の話より|自著を語る 〕。
以降は一転して現代を舞台にした短編に取り組み、『高瀬川』(2003年)や『滴り落ちる時計たちの波紋』(2004年)、『あなたが、いなかった、あなた』(2007年)、インターネット上の性をテーマにした中篇『顔のない裸体たち』(2006年)を刊行。短編では活字を絵のように用いたり、同一ページに複数の物語を併記するなど実験的な試みを行なっている(後述「小説による視覚実験」参照)。
2006年から『新潮』で連載した『決壊』以降は、自身が提唱する「分人主義」の概念に基づき、『ドーン』(2009年)、『かたちだけの愛』(2010年)、『空白を満たしなさい』(2012年)などの長編を執筆している。2012年には、「分人主義」の考え方をまとめた新書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』も刊行された。
2005年文化庁文化大使に任命されフランスに1年間滞在。2008年にモデルの春香と2年間の交際を経て結婚。明治神宮にて挙式を行なった〔毎日jp:平野啓一郎氏:モデルでデザイナーの春香さんと結婚 〕。同年、三島由紀夫賞選考委員に最年少で就任、『決壊』で織田作之助賞候補。2009年、『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞(島田雅彦選考委員)。
=== デビューの経緯 ===
平野の特色の一つとしてその「投稿によるデビュー」が挙げられることがある。平野自身がインタビューで答えた情報によれば、デビュー経緯は以下のごとくである。
1997年、21歳の平野は1年(資料収集半年、執筆半年)を費やしデビュー作となる『日蝕』を書く。〔
文芸誌の編集長4人が登場した『三田文学』の特集を読み、『新潮』の前田速夫編集長の文章に共感を覚え、「この人は自分の小説を面白がってくれるんじゃないか」と考え、投稿先を『新潮』に決める。年末、『新潮』編集部に自分の思いを綴った16枚の手紙を送る。
手紙を読んだ編集部からは「とりあえず作品を見せて欲しい」と回答。編集者の出張先が京都であったこともあり、会って食事をする。1998年、『新潮』8月号に『日蝕』が一挙掲載され、「三島由紀夫の再来とでも言うべき神童」などという宣伝とともにデビューした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「平野啓一郎」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.