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広島原爆で被爆したロシア人(ひろしまげんばくでひばくしたロシアじん)は、1945年8月6日広島市への原子爆弾投下で被爆したロシア人。 == 沿革 == 1917年ロシア革命で敗れソビエト政権に反対した白系ロシア人は祖国を去り国外へ亡命した。その中には日本に亡命し各地に定住したものもいた。1925年日ソ基本条約が締結すると、彼らは「無国籍」となりそのまま日本に定住したものと海外へ移住しその地で国籍を取得したものに分かれた〔。1930年時点で、兵庫県と神奈川県を中心に1,666人いた。 1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下。白系ロシア人6家族13人が被爆したことがわかっている〔。5家族12人が直接被爆、1人のみ元々広島に住んでおらずいわゆる入市被爆している。12人のうち4人が即死、1人は同年中に死亡している〔。生き残ったもののうち、5家族9人やクラウス・ルーメル神父らは終戦後すぐ帝釈峡の旅館に強制的に移された。秋まで滞在し、そして神戸と東京へそれぞれ向かうことになる〔。 日本において初めて公的にその存在が明らかになったのは、1970年ポール・ボルゼンスキーが原爆死没者名簿に記帳された時である〔。ただフョードル・パラシューチン(神戸異人館パラスティン邸の元家主)は唯一被爆者健康手帳を持っていたため〔、公的な手続き上での被爆者認定はパラシューチンの方が先である可能性がある。 一方でソビエト政府は、広島・長崎原爆を非難しそして学校教育でも積極的にその惨劇を教えていたものの、被爆者の中に白系ロシア人がいたということは、彼らが反ソ連という立場であったため全く無視されていた〔。1980年代後半からのペレストロイカ以降、白系ロシア人亡命者の研究が始まり、2002年ロシア科学アカデミー東洋学研究所の機関誌に青山学院大学ピョートル・ポダルコの”ロシア人の被爆者”という論文が掲載され、初めてロシア国内でその存在が公表された〔〔。 なお、公的に被爆者として認定されているのは2009年現在で4人だけである〔。2015年、所在がわかっている最後の人物が亡くなり、ロシア人被爆者は全員亡くなったと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広島原爆で被爆したロシア人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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