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広幡長忠 : ウィキペディア日本語版
広幡長忠[ひろはた なかただ]
広幡 長忠(ひろはた なかただ、宝永8年4月4日1711年5月21日) - 明和8年9月27日1771年11月3日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三朝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで進んでいる。父は第2代当主の広幡豊忠内大臣)。妻は醍醐冬熙左大臣)の娘。子に広幡輔忠(前豊)(内大臣)、久我信通(久我家養子・内大臣)、娘に西園寺賞季室、伊達重村観心院がいる。
父・豊忠の跡を継いだ三人の兄が相次いで没したため、広幡家の当主となり、1720年(享保5年)に叙爵。以降累進して1728年(享保13年)に従三位に達して公卿に列する。1729年(享保14年)に踏歌節会外弁となり、1730年(享保15年)に権中納言1731年(享保16年)から1735年(享保20年)の間には皇太子昭仁親王(桜町天皇)の春宮大夫となる。同年正三位1735年(享保20年)に権大納言となった。1744年(延享元年)に正二位を授与された。しかし1756年(宝暦6年)に出家し、四十六歳にして朝廷を去った。法名は承恵。1771年(明和8年)に入寂。享年61。
== 関連項目 ==

* 広幡家



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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