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広瀬直幹[ひろせ ちょくかん]
広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月〔『新編日本の歴代知事』1085頁。〕 - 1936年(昭和11年)5月2日〔『朝日新聞』(東京本社発行)1936年5月5日夕刊、2面の訃報より。〕)は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。旧姓・豊田。 ==経歴== 香川県出身。豊田官吾の二男として生まれ、広瀬トセの養子となる〔。第三高等学校を卒業。1904年、京都帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』187頁。〕。 以後、栃木県警視、北海道庁事務官・第二部長〔『官報』第7212号、明治40年7月15日。〕、群馬県事務官、和歌山県事務官・警察部長、内務書記官、長野県内務部長、徳島県内務部長、長崎県内務部長などを歴任〔。 1919年8月、宮崎県知事に就任。新設の県立中学校について、前堀内秀太郎知事が飫肥町(現日南市)に設置の内定を出していたが、広瀬に引き継がれなかったのか下穂北村(現西都市)に設置を約束した(妻中学校)。そのため県会が紛糾し、広瀬知事に対してドビンが投げつけられる事件が起こった。1921年6月、関東庁内務局長へ転任〔。1927年に退官。その後、東京市社会局長を務めた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広瀬直幹」の詳細全文を読む
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