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広河 隆一(ひろかわ りゅういち、1943年9月5日 - ) は、日本のフォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家。フォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANの元編集長。 イスラエル、パレスチナの双方に多くの人脈と知人を持ち、パレスチナ問題を取材し続けている。チェルノブイリを事故以来25年以上に渡って取材し、また救援活動を行っている。福島第一原発事故の後は、主に日本の原発や放射能に関する諸問題を取材するかたわら、福島の子どもの救援活動を行っている。福島の子ども保養プロジェクト「NPO法人 沖縄・球美の里」理事長。 ==経歴== 中国・天津市で出生、2歳の時に引き揚げる〔「写真記録 パレスチナ2 消えた村と家族」日本図書センター〕。東京都世田谷区在住〔『毎日新聞』、2013年8月23日〕。 大阪府立生野高等学校を卒業し、1967年早稲田大学教育学部卒業後イスラエルへ渡航。イスラエル北部のキブツ・ダリヤに滞在し、そこでヘブライ語を学習した。 広河は渡航当初、共同主義的なキブツに対し憧れを抱いていたが、同年第三次中東戦争が勃発し、イスラエルがその戦争に大勝利を収めたことにから、イスラエルによるパレスチナ人に対する過酷な人権侵害を知るようになり、親パレスチナ的な態度をとるようになった〔『パレスチナ/瓦礫の中のこどもたち』 徳間書店(2001/02発売)ISBN 9784198914592〕。イスラエルにおいては「マツペン」という反シオニスト的な政治団体で活動を行っていた。エルサレムで反シオニズム写真展を開催した後、1970年、帰国。以後、中東諸国を中心に取材活動を行う。 1982年、レバノン右派民兵によるパレスチナ難民の虐殺、サブラー・シャーティーラーの虐殺を含めた第一次レバノン戦争に関する取材を行い、よみうり写真大賞を受賞〔広河隆一プロフィール 〕。翌83年、同写真でIOJ国際報道写真展大賞・金賞受賞〔。 日本帰国後に戦場カメラマン、イスラエルや原発に対して批判的なスタンスをとりはじめる。一時は立教大学において非常勤講師を務めた。講談社の「DAYS JAPAN」に、イスラエルのビジネスマン、アイゼンベルに関する記事や、ダイヤモンドシンジケートの取材、チェルノブイリの現状、731部隊などに関する記事を掲載。また日本テレビ、NHKなどでチェルノブイリや中東に関する報道番組を多数制作発表する。 また報道に徹するだけでなく各地で救援活動を行っている。「チェルノブイリ子ども基金」代表(設立時)、パレスチナの子どもの里親運動顧問(設立時は代表を務めた)、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)世話人代表等を歴任。全国各地で講演を行っている。 2003年12月、廃刊になっていたDAYS JAPANを再創刊すべく株式会社デイズジャパンを設立。代表取締役社長を務める。 2004年3月、フォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」を再創刊する。編集長を務める(2004年4月号から2014年9月号まで)。 2008年、パレスチナ難民発生から60年の歴史を記録した劇場映画「パレスチナ1948NAKBA」(日・英・仏・アラビア語版)、DVDボックス(30巻、日英版)を「1コマサポーターズ」の支援で制作。 2011年、「東長崎機関」の「たくさんの戦場野郎たち」とともに『戦場カメラマンという仕事』という書籍に寄稿している〔戦場カメラマンという仕事~ハローワーク、2015年12月15日閲覧 〕。広河は「戦場カメラマン」と呼ばれることについて認めてしまうと、戦争の存在を肯定してしまうことになると講演会等で度々口にしており、普段は戦場カメラマンではなく「フォトジャーナリスト」と自称している。 2012年7月5日、かつて代表を務めた「チェルノブイリ子ども基金」の経験を活かし、福島県の子どもたちを福島第一原子力発電所事故の影響の少ない沖縄県の久米島において保養させるプロジェクト「NPO法人沖縄・球美の里」を発足させた。 2014年8月、DAYS JAPAN2014年9月号をもって編集長を丸井春に交代した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広河隆一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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