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廣瀬貞文 : ウィキペディア日本語版
廣瀬貞文[ひろせ さだふみ]

広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1854年9月 - 大正3年(1914年4月15日)は、明治・大正期の官吏法学者儒学者衆議院議員(5期)、国民協会所属。は、濠田(ごうでん)。
== 経歴 ==
広瀬淡窓の遠祖にあたる子孫で、広瀬家の生まれ。豊後国に儒学者・広瀬青邨の子として生まれる。
家塾の咸宜園漢学を修め、朝吹英二が証人となり、明治8年(1875年慶應義塾本科に入学し、明治11年(1878年)に本科を卒業した。在学中から碩学の士とうたわれ、刑法治罪法などの法律学を研究。千葉県属から司法省属、大審院書記を経て内務省に入る。帰郷して、大分県教英中学校長、埼玉県尋常師範学校漢文科教授嘱託、台湾総督府事務嘱託等を歴任し、明治40年(1907年)に日田町長(四代目)に就任。他、また上海商務印書館に入り法律書等の翻訳に従事した。
私塾・「咸宜園」の再興を目指し、明治18年(1885年)2月から明治20年(1887年)11月まで塾を主宰。明治15年6月には「私立学校」として府知事あてに再び調書を提出(青邨は山梨滞留のため貞文名義)、そこでは名称が「東宜園」と改められた。
第2回衆議院議員総選挙にて国民協会の推薦を受けて、大分県四区より立候補して当選し、以来第6回まで代議士を務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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