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廣田理太郎 : ウィキペディア日本語版
廣田理太郎[ひろた りたろう]
廣田 理太郎(ひろた りたろう、明治1年(1868年)〔加藤シヅエ『百歳の幸福論:悔いなく今日を生きるための知恵』大和書房、1996年、141頁〕 - 昭和10年(1935年9月2日)は工学者実業家教育者。 
== 経歴 ==
広島県福山市出身〔#新日本人物大観100頁〕。廣田家は代々備後福山藩勘定役を勤めた家系廣田理太郎 〕。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て〔東京帝国大学機械科卒業〔#広島県先賢傅30頁〕。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり〔加藤シヅエ『想い出のふる』自由書館、1984年、10-25頁〕。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった〔。
帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立〔自転車資料年表 - 日本自転車史研究会 〕〔日本のオーディナリー型自転車の歴史 〕。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ〔、お金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる〔。
帝大卒業後、石川県尾小屋鉱山新潟県佐渡島の銀山の技師・技師長を経て高田慎蔵に協力し1894年高田商会入社〔〔。同年、内務省土木課長の近藤虎五郎と欧米視察の土産としてフランスからマンハイム計算尺を持ち帰る。この計算尺が日本に初めてもたらされた計算尺とされる〔 電子式卓上計算機技術発展の系統化調査 - 国立科学博物館産業技術史資料情報センター 電子工学博物館 - 芝浦工業大学 工学部 電子工学科 〕。この計算尺を見た逸見治郎が製作研究を始めたのが日本製計算尺研究のスタート〔計算尺の歴史 - ヘンミ計算尺株式会社 〕。英語が堪能な廣田は高田商会の技術部門で活躍し、外国へ機械や兵器類の買い付けに飛び回った〔〔加藤シヅエ『加藤シヅエ 百歳 愛と勇気の言葉の記録』婦人画報社、1996年、15-16頁〕。日露戦争時には寺内正毅元帥の命を受けてイギリスに渡り、ロシアを倒すために性能にいいイギリスの最新兵器をどんどん買い付け陸軍に納入した〔〔『百歳の幸福論』142頁〕。廣田邸内には西欧文化が入り込んでいた〔。廣田自身、最初は典型的なイギリス紳士の格好であったが、アメリカと貿易を始めるとアメリカ風のファッションになったという〔。 
高田商会には13年間勤務し、事務長・監事・総支配人を務めた後、他の重役との経営上の衝突から退職〔〔。その後東京帝国大学工学部で講師を務め、鉱山技術者の養成に務めた〔。1919年鉱山用機械の設計改良により工学博士の学位を得る〔。日本鉱業学会会長に推されたが1935年嗜眠性脳炎により没した〔〔。
廣田を始め福山藩士の一族は藩主阿部正弘が所有していた本郷西片町に家を建てていたが、高田商会勤務時代の1897年、東京麹町番町の敷地約500坪に新居を建てる〔加藤シヅエ『ある女性政治家の半生』PHP研究所、1981年、11-17頁〕。建築に興味があった廣田はさらに1913年隣家を買い足し、1000坪の敷地にゲオルグ・デ・ラランデ設計による総建坪600坪の豪邸を建てた〔『百歳の幸福論』146頁〕〔〔加藤 シヅエ - 麹町界隈わがまち人物館 〕。チロル地方に見られるような6階建て純西欧風の邸宅には多くの使用人もいて、地下にはボウリング場やビリヤード台もあったという〔〔〔。現存はしない。他に鎌倉市星の井別荘も持っていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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