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延 岑(えん しん、? - 36年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将。字は叔牙。荊州南陽郡筑陽県の人。義父は秦豊。義兄弟は田戎。初期は主に漢中や荊州南陽郡を活動地域とした新末後漢初の群雄の1人で、後に蜀(成家)の公孫述配下となった。光武帝の天下統一事業に最後まで抵抗した闘将である。 == 事跡 == === 漢中攻防戦 === 延岑は『後漢書』で立伝されておらず、公孫述伝に付随する形で若干その経歴が記載されている。しかし、その出身階層や初期の事跡等については、明らかでない部分が多い。更始1年(23年)、延岑は更始帝(劉玄)配下の劉嘉に冠軍(南陽郡)で敗れて降伏した。しかし、その時点の延岑が官軍に属していたか、それとも独立した群雄の1人(あるいはその部将)だったかは、不詳である。 その後、建武2年(26年)、南鄭(漢中郡)で再度叛乱〔延岑は、恐らくは更始政権で漢中王に任命された劉嘉に随従して、漢中入りしたのであろう。〕し、劉嘉を破って南鄭を占領した。2月には武安王を自称している〔「光武本紀」本紀第一上〕。延岑は劉嘉を追い、北西の武都郡に入るが、更始柱功侯李宝に敗れ更に北の天水郡に逃げる。空いた南鄭は公孫述の将侯丹が押さえた。劉嘉が李宝を相として起用し、これを攻撃したが下せなかった。 そのため劉嘉・李宝は河池・下弁(いずれも武都郡)に駐屯し、延岑としきりに戦っている。延岑は散関から三輔に入り、劉嘉・李宝もこれを追った。陳倉(右扶風。長安の西方)で劉嘉・李宝に敗れた延岑は、東進して杜陵(京兆尹。長安の南東)を根拠地とする。劉嘉・李宝は赤眉軍の廖湛を滅ぼして雲陽(左馮翊。長安の北西)に駐屯した。 同年9月、延岑は李宝と連合し〔延岑と劉嘉・李宝との間で、何らかの和解が成立したものと見られる。〕、杜陵で赤眉軍の逄安が率いる大軍を撃破した。また藍田(京兆尹)で漢の大司徒鄧禹の攻撃を受けたが、延岑はこれを撃退している。翌建武3年(27年)4月、延岑は馮異に上林苑(右扶風)で撃破されてしまった。さらに、馮異の連絡により鄧曄・于匡にも析県(弘農郡)で迎撃を受け、延岑は敗走した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「延岑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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