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延岑 : ウィキペディア日本語版
延岑[えん しん]

延 岑(えん しん、? - 36年)は、中国代から後漢初期にかけての武将。叔牙荊州南陽郡筑陽県の人。義父は秦豊。義兄弟は田戎。初期は主に漢中荊州南陽郡を活動地域とした新末後漢初の群雄の1人で、後に蜀(成家)の公孫述配下となった。光武帝の天下統一事業に最後まで抵抗した闘将である。
== 事跡 ==

=== 漢中攻防戦 ===

延岑は『後漢書』で立伝されておらず、公孫述伝に付随する形で若干その経歴が記載されている。しかし、その出身階層や初期の事跡等については、明らかでない部分が多い。更始1年(23年)、延岑は更始帝(劉玄)配下の劉嘉に冠軍(南陽郡)で敗れて降伏した。しかし、その時点の延岑が官軍に属していたか、それとも独立した群雄の1人(あるいはその部将)だったかは、不詳である。
その後、建武2年(26年)、南鄭(漢中郡)で再度叛乱〔延岑は、恐らくは更始政権で漢中王に任命された劉嘉に随従して、漢中入りしたのであろう。〕し、劉嘉を破って南鄭を占領した。2月には武安王を自称している〔「光武本紀」本紀第一上〕。延岑は劉嘉を追い、北西の武都郡に入るが、更始柱功侯李宝に敗れ更に北の天水郡に逃げる。空いた南鄭は公孫述の将侯丹が押さえた。劉嘉が李宝を相として起用し、これを攻撃したが下せなかった。
そのため劉嘉・李宝は河池・下弁(いずれも武都郡)に駐屯し、延岑としきりに戦っている。延岑は散関から三輔に入り、劉嘉・李宝もこれを追った。陳倉(右扶風。長安の西方)で劉嘉・李宝に敗れた延岑は、東進して杜陵(京兆尹。長安の南東)を根拠地とする。劉嘉・李宝は赤眉軍廖湛を滅ぼして雲陽(左馮翊。長安の北西)に駐屯した。
同年9月、延岑は李宝と連合し〔延岑と劉嘉・李宝との間で、何らかの和解が成立したものと見られる。〕、杜陵で赤眉軍の逄安が率いる大軍を撃破した。また藍田(京兆尹)で漢の大司徒鄧禹の攻撃を受けたが、延岑はこれを撃退している。翌建武3年(27年)4月、延岑は馮異に上林苑(右扶風)で撃破されてしまった。さらに、馮異の連絡により鄧曄于匡にも析県(弘農郡)で迎撃を受け、延岑は敗走した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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