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式守 伊之助(しきもり いのすけ)は大相撲の立行司の名前で、木村庄之助に次いで2番目の地位(番付で言うところの西正位横綱)にあたる。当代は2013年11月場所から務める40代(2016年1月現在)である。 == 解説 == この名跡は代々三役格から立行司に昇格する行司が襲名しており、軍配には紫白の房、装束には紫白の菊綴じを着用し〔1927年から1959年までの伊之助の菊綴・房は、現在のものより白部分が少ない紫白であった。伊之助が用いる現在の紫白は1927年から1951年まで木村玉之助が用い、1951年から1959年までは副立行司が用いていた。〕、庄之助同様、差し違えた際に切腹する覚悟を意味する短刀を左腰に差し、右腰には印籠を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合せている。 初代が明和年間より寛政年間にかけて使用した軍配が現存する。現在、土俵上で受け継がれている1本の軍配(「ゆずり団扇」とも呼ぶ)に記されている文字は、どのように読むのかはっきりしていない。(この軍配の裏面に書かれている文字は和歌がしたためられており、正確に読むことができる。その和歌の文面は、「いにしへの ことりつかひの おもかけを 今ここに見る 御世そめてたき」である。)1882年の相撲錦絵にすでに登場しているが、伊之助のゆずり団扇となったのは20代時代の1960年5月からである。 行司停年制実施前の1958年限りで、庄之助同様、年寄名跡より除かれた。現存する行司2家のうち、式守家は初代伊之助が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。 多くが60歳を過ぎてから襲名する傾向にあり、19代〔19代は定年制導入以前である。〕、27代、30代、34代が64歳、26代が63歳で襲名を果たしている。一方、若年襲名の記録として6代〔6代は生年月日が不明である。〕と8代(40歳)、23代(48歳)の例があり、当代(40代)は54歳で襲名している。 明治年間、本場所で勧進元を務めた伊之助が開催直前に亡くなるという“位牌勧進元”が続いたことがあった。6代、7代、8代、9代と連続して起こり、その直前である5代も含め5人続けて現役で亡くなった。さらに、14代は1926年1月場所からの襲名が決まったものの、伊之助として土俵に上がることなく、前年暮れに死亡している(死後、1926年1月場所の番付には14代として「式守伊之助」と書かれている)。「伊之助の祟り」として恐れられたが、ことごとく偶然が重なったことによる。 10代以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。 また、立行司が3人制(庄之助、伊之助、玉之助。玉之助はのち副立行司に降格)時代に、木村玉之助から伊之助を襲名したのは17代と18代の2人の伊之助のみである。 35代は唯一、伊之助在位1場所で庄之助を襲名しており、36代は2005年9月場所に三役格に昇格してわずか4場所で2006年5月場所に伊之助を襲名した。これは三役格から立行司に昇格した史上最短の記録である。 2008年5月場所からは10代式守勘太夫が38代を襲名した。2011年11月場所より38代が庄之助を襲名し、16代木村玉光が39代を襲名するはずだったが、健康問題を理由に辞退したため、伊之助は暫く空位となった〔立行司が一人になるのは庄之助が不在だった2006年3月場所以来である。〕。2012年11月場所より10代木村庄三郎が39代を襲名した。2013年11月場所、39代が庄之助を襲名したのに伴い、11代式守錦太夫が40代を襲名した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「式守伊之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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